いばらの森
―――あれで本当は恋人でもなんでもないというのだから(アルフォンスは、緊急措置としてロイが婚約者を名乗ってくれるとは聞かされていたが、ふたりがキスをしたことがあるとは知らない)。
(…ああいうのも育てる楽しみって言うのかな…?)
胡乱げにアルフォンスはロイを見つめて思う。
確かにロイはやさしい。むしろやさしすぎるといってもいい。だが、ここまでくると、アルフォンスにもほとほと疑問なのだ。なぜ彼がここまでしてくれるのかが。大体、たいへん下世話な話だが、…あんなままごとみたいなことをして、目いっぱい甘やかして、本当に彼はそれでいいのだろうか。
アルフォンスには何とも判断がつかない。
ロイがそれで満足するとはあまり思えないが、といって、エドワードとどうにかなってしまうのもあまり歓迎は出来ない。将来的にはともかく、今すぐにどうこうというのは、やめておいてほしいと思うのだ。
エドワードはあれで意外と切り替えがうまくない。一度懐に入れた相手をとことん大事にする。自分の身を呈してでも。そして今のエドワードは、どう見ても、ロイに惹かれている。たとえば恋人になりたいとか、本当に婚約者になりたいとか、そこまで意識して考えているということはないだろうが、惹かれて、随分と気を許しているのは確かだ。そうでなければあんな振る舞いはしないだろうし、何よりまず、ロイの前で泣いたりしないだろう。
―――どうして大事にしているのかはよくわからないが、どうか悲しいことにだけはならないといい、とアルフォンスは思った。考えすぎなのかもしれないけれど、今のあの二人は、あまりに自然に親しく振舞いすぎていて、その反動が怖いような気がする。エドワードにしても、そして案外ロイにしても、恋に溺れて何かを見失える性格はしていないだろう。彼らに備わっている情熱とは、残念ながら、一番に向かう場所が恋ではない気がするのだ。彼らがそれを残念と思うことはないだろうけれど。
「…あんな風だったのかな…」
不意に、少年は思った。
もしかして、母も昔、父とあんなふうに朝を過ごしたのだろうかと。急に。
(そうしたらコリンがボクで、シーナがねえさんか)
平和な朝食の光景を見つめながら、アルフォンスは胸が痛むような気持ちになった。
そして姉を心配する本当の原因に気付いてしまう。
不安なのは、置いていかれる自分なのかもしれない。
戻らなくちゃ、と不意に強くアルフォンスは感じた。
近所の子供達はアルフォンスと一緒に川原へ出かけ、エドワードはといえば、昼を用意していると言って家へ残った。
そしてロイは―――、
「すこし探検してみないか?」
「あ」
エドワードが昨日話した鍵をちゃりん、と回してみせた。
「うん! …でも大佐、今日どれくらいまでいられるんだよ?昼は食ってく?」
「ああ。…そうだな…、午後四時くらいに出ればいいかな」
「そっか。じゃ、昼は大佐の好きなもん作ってやるよ」
笑顔で首を傾げるエドワードをまじまじと見つめた後、ロイは顔をそらしてぷっと噴出した。しかし口を押さえているのはもしかしたら、照れているのかもしれない。
「なんで笑うんだよ」
「いや…その、…怒らないか?言っても」
「むしろただ笑われたんだったら今怒る」
「…嬉しかったから、かな」
「は?」
よくわからなくて、エドワードは眉を顰めて反対側に首を捻る。
「本当の夫婦みたいじゃないか?」
「…!こ、ここ、婚約者っ、だろっ…」
かあっと顔を染めてエドワードが切羽詰った声を上げると、そうだった、とロイは笑った。
「…では、昼を楽しみにさせてもらおう。リクエストしてもいいってことだろう?」
このロイの台詞に、顔を赤くしたままだったが、エドワードは首を振った。
「違うよ」
「…私の好物を作ってくれるんじゃなかったのか?」
「作るぜ?」
「……?」
辻褄が合わなくないか、と見つめれば、エドワードは上目遣いにロイを見上げ、悪戯っぽく言う。
「だってオレは秘密の情報見つけちゃったんだもんね。大佐の好物なんてちょろいもんだぜ」
「…情報、ね…」
ホークアイ中尉でも何か垂れ込んだのだろうか、と色々叩けば埃の出てくる大佐殿は思った。
「ま、そっから先はお楽しみってことで。探検しようぜ!その鍵、気になってたんだ」
天真爛漫に笑う顔は先週と比べて随分元気になっていて、まあいいか、とロイは苦笑して収めたのだった。
屋根裏に上ると、そこはさすがに埃っぽかった。…まぁ、無理もない。
「ああ…、今更かもしれないが、君は少し着替えてこないか?汚れてもいい服か何かあったら」
「…アウト。オレもうくもの巣に突っ込んだ…」
情けない声を聞いて、ロイは苦笑した。これは、降りてから着替えるべきなのだろう。まあ、しょうがない。
「大佐こそ、服ないだろ?どうすんだよ」
「…私は…今日は帰るだけだから、別に埃くらい払えばどうってこともないよ」
肩をすくめるロイを見てエドワードが笑った。そして自分の鼻の頭を指して、笑う。
「大佐、鼻にくもの糸くっついてるぜ?」
「…道理でむずがゆいと思った。風邪かと思ったが、違ったんだな」
冗談めかした答えに、エドワードは声を出して笑った。
「そんなわけないっての!大佐って、意外と面白いよな」
小さな天窓からの光線に埃が浮かんで、それはまるで光そのものが踊っているように見える。そしてその光の中央で、金色の髪を輝かせて楽しそうに揺れるエドワードがいる。ロイも楽しくなって、はは、と笑う。
「そうかい?」
「ああ、あんたってもっと…そうだな、なんていうのかな?お堅い人なのかと思ってた、オレ」
ああおかしい、と笑いながら、笑ったせいか赤みの増した頬を輝かせ、エドワードは言う。
「でも違ったんだな。大佐って。…オレ、すごく驚いてる」
「驚いて…いる?」
「ん。…あのな、えっと、後で見せるけど…オレ、ピアノの鍵探してて、ノート見つけたんだ」
「ノート?」
話の脈絡が見えず、ロイはただ鸚鵡返しに繰り返した。それに、ん、ノート、と頷いて、エドワードは続ける。
「誰のノートだと思う?」
「さぁ…」
さぁ、と言ったが、この家で出てきたのなら、それは幼い日のロイか、…もしくは母親が書き付けたもの以外にありえないのはわかっていた。父親…ではないと思うのだ。
「何冊か見つけてさ。…誰かさんが生まれた時から始まってるんだ」
「……」
「蝉捕まえてきたとか、野良猫拾ってきたとか。捨て犬拾ってきたとか、好き嫌いが多いとか、学校で随分女の子にもてるらしいとか…誰かさん、昔から女にもてたんだな」
エドワードはそこでにこりと笑った。よくよく見れば、その頬はいつの間にか随分と赤い。
「…大佐、その鍵、早く開けて。ピアノの鍵、まだ見つかってないんだ」
呆然とエドワードに見入っていたロイに、少女が照れ隠しのように声をかけたので、ロイははっとして、屋根裏の中央に置かれていた横広のキャビネットに向き直った。
「…この前のさ、…嵐の時」
キャビネットをがたがたといじっているロイの背中に、ぽつりとエドワードが口を開く。
「うん?」