いばらの森
振り返らずに答えれば、エドワードが少し笑ったような気配があった。
「あの時も、オレびっくりした。…あんたがああいう人だって、オレ、ずっと思ってなかったんだ」
「…そうか…」
「…。あと、今朝もびっくりした。大佐って家事出来るんだな。普段からやってるのか?」
かこん、と音がして、キャビネットのドアが開いた。
「…まあ、簡単なことくらいはな。洗濯はするぞ?後は簡単な料理くらいは」
何しろ酔って帰っても介抱してくれる人間もいないから、とロイは冗談めかして笑った。肩をすくめ、目を細めて。
「ふーん…」
そんなロイに、エドワードはわずかに首を傾げてみせる。
「…。さて、ピアノの鍵を探そうか」
「…。そうだな」
無難に問いかけたロイに、エドワードも頷き、ロイの隣まで歩いてくる。そうして開かれたキャビネットの中へ首を突っ込む。
「なんか色々入ってるな」
「ああ…そうか、君には言わなかったのか。…これはね、宝箱なんだよ」
「は?宝…?」
とりあえず手前にあった小箱を取り出しつつ、ロイは笑う。
「ああ。私達母子の、秘密の宝箱さ。…何か大事なものは、このキャビネットにしまっていた。母の、…数少ない嫁入り道具だと言っていたな」
懐かしそうに目を細めて、ロイはキャビネットの表面に触れた。エドワードもまた、静かになってそこに目を細める。…と、
「…ん? ―――大佐、これなんだ?」
キャビネットの側面に、どうも何か、落書きのような汚れが見て取れた。エドワードが顔を近づける斜め後ろで同じく目を細めたロイが、やがて、困ったように小さく声を上げる。
「…あ、…それは…」
「これは?」
指差したままロイを振り返ったエドワードが目にしたのは、しまった、という風に口を押さえてあらぬ方を見やる男の姿だった。
…確かにどちらかといえば童顔の男ではあるけれど、だからといって子供じみているとかそういうことを感じたことはなかった。ロイは、エドワードから見たら、やはり大人の男だった。
だがその時不意に、エドワードは思ったのだ。かわいいな、と。ほとんど無意識に。
そんなエドワードの心情など当然知らず、ロイは、ばつが悪そうな顔でちらりと少女を窺った。
「…多分、…犬だと思う」
「―――犬?このなんか…楕円に棒がくっついたみたいのが?」
このエドワードの切り返しに、ロイの顔がしかめられた。う、と小さく唸って、ロイは絶句している。なんだかおかしくなってきて、エドワードは結局くすくす笑い出してしまった。
「大佐が描いたの?これ」
「……………。すっかり忘れていたがね…、私、だな…」
「お母さんの嫁入り道具にこんな落書きして! …あーもー…おっかしい、あんたにもそんなちっさい頃があったんだな」
体を揺すっておかしそうに笑うエドワードとは対照的に、ロイは弱りきった表情になる。
「…『私の可愛いロイ』」
「…?」
不意にやさしげな声で信じられない言葉を呟かれ、ロイは驚きに目を瞠った。見れば、エドワードは顔を赤くしていたが、それでもその大きな目は随分と大人びて、微笑んでいた。
「ノートに書いてあった。あんたが生れた時から始まって…たまに写真が貼ってあって。今日はこんなことがあったとか、立ったとか、歩いたとか、初めて食べたとか…熱出したとか、…犬が飼いたいって、駄々こねたとか」
「…………」
「…。オレ、今まで思ったことなかったんだ…」
エドワードは一瞬寂しそうな光を瞳に浮かべたが、すぐに振り切って小首を傾げた。
「オレは子供だった。母さんが大好きで、いなくなったのがいやで、寂しくて、悲しくて、どうしても戻ってきてほしかった。一緒にいたかったんだ…」
「……はがねの…」
「うまく言えないんだけどさ、…でもオレはきっと、母さんの立場で考えたことなんか、一度もなかったんだ」
「…?それは…そんなにおかしなことじゃないだろう」
エドワード達の母親がなくなったとき、少女はまだ幼いといっていいほどに子供だったのだ。まさか母の立場になってものを考えることが出来たとは、到底思えない。そして母を恋しがってもなんら無理はないではないか。何より、彼ら姉弟には父も既にいなかったのだ。死別していなくとも、傍にいないのなら、子供にとっては大きな違いにはなるまい。
「もっと聞いておけばよかったんだな…って、思った。大佐のお母さんの日記見てたら。母さんは、オレやアルのこと、大好きっていつも言ってくれた。でも、どんな風に見てたんだろう、どんな風に考えてたんだろう? …オレもアルも母さんが大好きで、母さんもそう言ってくれたけど、…やっぱりうまく言えないけど…母さんが毎日何を考えてたのか、母さんだってトリシャっていうひとりの人間だったんだもんな。きっと、もっと色々考えててくれたんだ。自分がいなくなったら、って、お金も残してくれてたくらいなんだし。それなのにオレはとんでもなく子供で、オレ達の母さんである母さんしか、知らなかったし、考えもしなかった…」
考えながらとつとつと喋るエドワードの言葉を聞きながら、ロイは呆然と瞬きを繰り返す。
―――そんなことは、ロイだって考えたことがなかったからだ。
「オレは母さんのことを何も知らなかった…」
まっすぐにロイを見つめて、エドワードは静かに言った。
「…大佐も、後で読んでみて。…オレは大佐のお母さんと会ってみたかったな…そんで、大佐の子供の頃の話、聞いてみたかった」
はにかみながら、エドワードは照れくさそうに言った。その暖かい表情を見ていたら、ロイはもう、たまらなくなってしまって、その是非も考えぬままエドワードを抱き寄せていた。ぎゅっと腕に抱きこめて、ロイは、薄い肩口に自分の額を預けた。
すると幾分かの困惑の後、エドワードのロイに比べたらずっと小さな手が上げられて、黒髪をぎこちなく撫でていく。先ほど幼児にしていたのと、似た仕種で。
「…大佐はやっぱり一人っ子だなぁ…」
子供が気に入りのぬいぐるみを抱き寄せるような、そんな必死な様子で自分を抱きしめる男に、エドワードは小さく言う。仕方ないと、聞き分けのない幼児を諭すような調子で。
「でっかいなりして。あんた、結構甘えたなんだ…」
ロイの頭に若干の重みがかかる。エドワードが手をよけて、自分の頬を預けてきたからだ。
触れる重みと暖かさに、ロイは胸が詰まるような気持ちになった。
「…エドワード…」
少女の首元、鼻先をうずめて、ロイはそっとその名を口にした。
「…なに?」
嫌がるかとも思ったが、少女はすこしも嫌がらず、ロイの頭をもう一度撫でてくれた。そして、ふふ、と小さく笑う。
「…君に、…渡したいものがあるんだ」
エドワードの受け入れてくれる態度に勇気付けられ、ロイは、ゆっくりと顔を上げた。
「…?渡したいもの?」
なんだ、とエドワードはごく不思議そうに首を傾げる。ロイの腕に体を捕らえられたまま、毛ほども逃げる気配もなく。
そんな彼女の様子にロイは目を細めて、服が汚れるのもかまわず、床に腰を下ろした。そして、胡坐をかいて、その膝の上にエドワードを座らせる。少しでも少女の服を…、いや、少女を汚さないために。