いばらの森
そうして自分の膝に座らせた少女に、ずっとそこにしまっていたのかはわからないが、ポケットからサテンの布を小さく折りたたんだものを取り出す。
「…?」
なんだろうと見ているエドワードの前で、ロイは黙ったまま、包みをきれいに開いていく。
「…指輪…?」
そこにあったのは、古ぼけたひとつの指輪だった。
「…」
ロイは掌の上で広げたそれを一瞬じっと見つめた後、もう片方の手でそれをつまみ上げた。
ほとんど光沢を失った鈍い金色が、天窓からの光を一瞬弾いた。
「…これは、」
何かを堪えるように、彼は口を開く。そして、そっと少女の白い手を取り上げる。それは生身の左手だった。
「…安物だけどね。…母親の形見で、私にとっては、大事な品だ」
「え…」
形見、という言葉に、少女の正真に黄金色した瞳が見開かれる。
「…これを、…受け取ってくれないか」
「え…、…な、…んで、だってそれ、大事な…」
ロイは首を振った。
「大事なものだから、君に持っていてほしいんだ」
「…たいさ…」
「…。つけても?」
飲まれたように、エドワードは頷いてしまった。それを認めて、ロイは、白い指にその古い指輪をはめる。少し余っていた。
「エドワード」
左手の薬指にその指輪をはめて、ロイは、恭しく少女の、傷を負ってもなおやわな印象の抜けない手を持ち上げた。
「…どうか、この指輪が君を守るように」
「…大佐…」
ロイはそこで、ほんの少し照れくさそうに笑った。
「…ちょっと気障だったかな?」
この三枚目的な台詞に、少女もふっと肩の力を抜いて、噴出した。
「…そ、かも」
笑いながら、エドワードは左手を軽く掲げて、その指輪をよく見ようと目を凝らす。
「…石もイミテーションだろう。何の石かもよくわからないし…」
確かにその暗赤色の石は、宝石にしては輝きに乏しかった。なおかつ全体的に意匠は古く、また、どう見ても高価そうではない。
だが、エドワードは嬉しかった。なぜならそれは、ロイが大事だと言った、ロイの母親の形見だと言うのだから。きっと、これを贈られるのは、エドワードが初めてなのだ。それを思うと、どんな高価な宝石を贈られるよりよほど嬉しかった。
「…ほんとに、いいの?」
指輪を贈られた手をきゅうと握りこんで、エドワードは首を傾げて尋ねる。ロイはそれに二、三度頷いて、逆に問い返す。
「君こそ、受け取ってくれるかい?」
今まで誰にも、これを預けようという気持ちにはならなかった。だが、初めて。エドワードに対して、いまだかつてなかったそういう気持ちを覚えた。だからどうしても彼女に受け取ってほしかった。
「…うれしい。…大事にする、オレ…」
指輪を抑えながら、はにかんで少女は小首を傾げる。
そのまろい頬に、誘われるようにそっと、ロイは触れる。エドワードは軽く目を瞠り、何か声を上げようとしたが、結局何も言わずに黙ってロイを見つめていた。
「…エドワード…」
ゆっくりと、静止画像のように、ロイのすこし無骨な指が、エドワードの白い頬を引き寄せる。まるで磁石が引き合うように自然に、ふたりの顔が近づいていく。息も触れ合うくらいに近づいて、…先に目を閉じたのは、エドワードだった。
「……」
金色の睫が小刻みに震えるのを、ロイは、瞬きもせず見つめていた。
触れただけの唇はすぐに離れて、けれど、二ヶ月と少し前の嵐の夜のように、それで終わりとはならなかった。
ほんのわずかな距離を開けて離れた後、ロイが再び唇を近づけてきたのである。逆らうでもなくそれを受け入れて、しかし少女は、その先を教えられた。
開いてとねだられるのに釣られて薄く招き入れれば、ねっとりとしたものが口内をおとない、驚きに目を見開く。しかしロイの黒い瞳は瞼の向こうにあって、端正な輪郭のみを至近距離で見つめることになってしまった。目が合うのとそれとどちらがよかったのかはわからない。いずれにせよ、エドワードにとっては脳みそが沸騰しそうなくらい照れくさかったことにかわりはなかった。
「…ん、んん…っ」
絡めとられ、息苦しく、眩暈を感じる。だからロイのシャツをきつく掴んでいたのは、当然無意識である。
「…ん、…っふ…」
縋る手にかかる力が増えたのに気付き、ロイは、名残惜しげに少女を解放する。途端に、とろんとした目でぼんやりあらぬ方を見つめるエドワードに、ロイは苦笑を浮かべた。
…自分のこらえ性のなさに、笑うしかなかった。
少女の紅く潤んだ唇をそっと親指でなぞって、それから上気した頬をたたく。金の睫が上下したかと思うと、ゆらゆらと揺れる黄金の瞳が、ロイを見上げた。
「…。エドワード」
呼びかけには瞬きが返ってくる。
ロイは手を伸ばして、…両手を伸ばして、エドワードの両の頬を押さえた。そしていとおしげに何度も撫でる。
「…エディ…」
少女はといえば、最初こそぼうっとしていたが、段々目元を紅く染めていき、気付けば困ったように俯いていた。
「………。…ゆびわ…」
やがてその小さな唇から落ちた言葉に、ロイは一度だけ瞬きした。
「…おれ、…大事に、する…」
照れくさそうなその物言いにたまらなくなって、ロイは、再びその小さな頭を抱き寄せた。だが今度はしっかりと腕に抱きこんで、触れるでもなくただ、頬ずりを繰り返した。
いとおしい、という気持ちを今初めて理解したような気がした。
眩しいほどに、うつくしい魂だと思った。自分が今まで覚えてきた、そういう触れ方で、ありきたりのもののように触れていい相手ではないと思った。そうすることで、そうやってエドワードを傷つけることで、自分もまた傷つくのだと。
大事にする、と言ってくれたエドワードの言葉が嬉しかった。そう言ってくれた少女を愛しいと思う自分がいることが嬉しかった。
「…私の母は、」
だから、かどうかはわからない。ロイの口を割って出てきたのは、今まで誰にも話したことのない、彼の過去だった。
「…?大佐…?」
「…私の両親は、セントラルから、この町へ駆け落ちしてきたんだそうだ」
「…かけおち?!」
思わずという感じで声を大きくしたエドワードを、ゆっくりと解放しながらロイは頷いた。
「父は資産家の息子だったと聞いたことがある。私が物心ついたときには既に亡くなっていたから、本人に聞いたわけでもないが」
「…お父さん、…亡くなってるのか…」
「母は、父の家に使用人として上がって。…身分違いだった。だから、ふたりは家を捨てたんだと聞いた。…そして私が生まれた。…私は父の籍には入れなかったんだ。…正式に、ふたりは結婚したわけではなかったから…」
困ったように男は笑った。
「私が十歳の時、父が生まれた家から使いが来た。祖父と伯父が急死して、家を継げる人間が一気にいなくなったんだそうだ。それで、それまで放っておいたはずの私に白羽の矢が立った。…その時連れ戻された私はそれきり、母に会うことはなかった。もっとも、私は結局その家を捨てて軍に入ってしまったから、今ではまるで縁がないがね。マスタングも母親の姓だし」
「…なに、それ…」
エドワードは信じられないという顔をして、呆然とそう言った。