いばらの森
03 ; On My Way Home
「おねっ、おねえちゃん…!」
こけつまろびつしながら垣根をくぐって隣から駆けて来た幼い少女にぎょっとしたのは、庭で水撒きをしていたアルフォンスである。
「シーナ?」
彼は慌ててホースを放り出して少女を拾い上げると、姉さん、とキッチンで夕飯の支度を始めていたエドワードに声をかけた。が、声をかけるまでも無く、甲高い声が聞こえていたのだろう、濡れた手を拭くのもそこそこ、エドワードもまたリビングを通って庭に出てくる。
「シーナ!」
顔をぐしゃぐしゃにしてアルフォンスにしがみついていた幼女が、現れたエドワードに気付き、手を伸ばす。心得て抱き取ってやれば、ひっしとエドワードの胸に抱きつき、おねえちゃん、としゃくりあげた。
「シーナ、どうした?」
息苦しそうに嗚咽をこぼす幼女の背中をとんとんと叩いてやりながら、途方にくれた顔でエドワードは弟を見上げた。しかし弟も首を振る。
「アル」
そこでエドワードは、顎を動かし、隣を見て来るようにと弟に告げる。アルフォンスも言葉なくそれに首肯のみ返して、機敏な動きで隣家に様子を見に行く。
「おね、おねぇ、ちゃ…っ、ぅっ…ぇっ」
「シーナ。…シーナ、大丈夫、オレはここにいるから…」
ぎゅう、とエドワードから見てもまだ小さい体を抱きしめて、少女は穏やかに繰り返した。
―――大丈夫、大丈夫だ…
不意に脳裏に蘇るのはロイの声。どうしようもない寒気に震えていた自分を、やさしく抱きとめて宥めてくれた人の声だった。
(…あの時大佐にもこういう風に見えてたのかな…)
だとすればすこし恥ずかしい。…かも、しれない。
―――しかし、エドワードがこんな風に思っていると知ったら、当のロイ本人はがっくりきそうな話であろう。彼がエドワードを安心させようと言った言葉のどれほどが、恋情に由来するか知りもしないで…。
「おねぇちゃ…コリン、…コリンがねっ…」
「え?」
幼女の口から飛び出した彼女の弟の名前に、エドワードは眉根を寄せた。
三歳になったばかりのコリンはまだ小さなシーナの弟だ。父を亡くし、母が働きに出ているため祖父母の家に預けられている二人は、とても仲のよい姉弟である。
「おばぁちゃんもいないの…シーナもコリンもいいこでいたのっ…」
「うん、うん…ふたりともいつもいい子だよ」
子供の頃、リゼンブールで年下の子供達にしていたようにあやせば、こくりとシーナは頷いた。そしてその拍子に、大粒の涙がぽろりと落ちる。
「コリンがいなくなっちゃったの…っ」
「…え…?」
コリンはもう歩けるが、そこまでたくさん歩けるわけでもない。まして、大人しい子だから、ひとりでどこか外に出るということは考えられなかった。
…ではどこへ?
エドワードの顔から、血の気が引いて行く。考えたくは無いが、あまりよい可能性は思い浮かばなかった。そして―――、
「…姉さん、大変だよ!」
隣を見に行っていたはずのアルフォンスが大きな声を上げて戻ってきて、事態の大きさを伝えたのだった。
アルフォンスが飛びこんだハートネット家で見たのは、普段は綺麗に並べられているはずのプランターの鉢植えがいくつも倒れているところだった。
「…それでおかしいって思って…」
そこで家の裏手、つまりこちらからは反対側になる方向へ回りこんだアルフォンスが見たのは、倒れ伏すハートネット夫人―――ジェシカおばさんの姿だったのだ。
アルフォンスがジェシカを抱えて飛びこんできた時、エドワードの顔が強張った。そして。
「これ…」
ジェシカが握り締めていた手紙に、エドワードは目を皿のように見開く。
「………ゆび…わ…」
白い封筒からは無造作に放りこまれた指輪が落ちてきた。
石も飾りも無い、ごくごくシンプルな、金の指輪。
他には、何も入っていないようだった。
「なにこれ…」
アルフォンスが片膝をつき、手に取ろうとした、その瞬間だった。
「やめろ」
「に…ねえさん?」
エドワードが顔を強張らせてアルフォンスの手を払い、目を皿のように見開き、食い入るようにそれを見つめていた。
「…アル。…向こうでシーナとおばさんを見ててくれ」
「え、でも…」
「いいから!」
「……ねえさん?」
「………。これはただの指輪じゃないんだ…」
エドワードの声が低くなる。視線はただ一点に集中し、横顔はただひたすらに厳しい物になる。
「………見てろ…」
パン、と乾いた音を立て、少女は掌を打ち鳴らした。そして、そのままその手で指輪に触れる。
…その途端、
バチバチバチバチィッ
「……っ!」
派手な錬成反応に思わずあとずさったアルフォンスの視界に、信じられない光景が飛びこんでくる。
「…なに、これ…」
「………。悪い魔法使い…とその呪い、…ってとこかな」
ぽつりとエドワードは呟き、壁に浮かび上がるそれを睨みつけた。
―――何の変哲も無いその、金の指輪にエドワードが触れた瞬間だった。激しい音を立て、指輪が「反応」したのは。
指輪の金環の中心には、錬成反応によって明らかになった細密な錬成陣が見て取れる。しかしそれは形を為す物ではなく、淡い燐光を放つ架空の陣だった。そしてそれを中心に浮かび上がる、壁に投影された、紋章を思わせる不気味な文様と地図。ぱっと見た感じでは、すくなくともこの辺ではなさそうだ。図紋の方は、二匹の蛇が尾を絡ませて作った円環と、その中央に刺さる一本の剣によって構成される、薄気味悪い柄だった。アルフォンスにとっては、初めて見る紋章である。
「…無形の錬成陣」
…と、ぽつり、エドワードが呟く。その聞きなれない言葉に、アルフォンスは首を傾げた。
「無形…?」
「閉じた円は世界を表す。指輪はそれと同じだ。円の中に世界がある。…だがその陣は他者からは見えない…」
「なに、それ…」
「………。言っただろ、悪い魔法使いの、魔法なんだよ」
エドワードは血の気の引いた顔をして―――しかし、きっと強く指輪を睨みつけると、もう一度掌を合わせ、指輪に触れた。
「…ねえさん?」
パキ、と高い音を立て、金の指輪は崩れ去る。
エドワードは答えず、ここに着てからというもの、ずっと編んでいなかった髪を、ただ結い上げていた髪の紐を取った。一度、するりと光を弾いて髪が広がる。
呆然と見守るアルフォンスの前で、髪紐を咥えてするすると姉は髪を編んでいく。そしてあっという間にあの、トレードマークといっても過言ではない三つ編みが出来あがる。ピン、となんだか懐かしくも感じる仕種で、エドワードは三つ編みを弾いた。
「―――アル」
静かにエドワードは弟を呼ぶ。彼女はゆっくりと弟を振り返り、強く人を射抜くような目を向けていた。
だがそれは厳しいとか怖いとかいうものではなく、凛とした、気高くも毅然とした瞳。
(…あぁ、)
その目を、アルフォンスは久しぶりに見た気がした。
だがこれこそが「エドワード」だ。確かにここ半月程の、どこか脆い、危うい様子を見せていた彼女もエドワードの一部ではある。だが本質というには多分遠いのだ。
この姉の本質、それは、この毅い瞳にこそある。
誰よりも身近で育ったアルフォンスだ。そんなことは、生まれた時から知っていた。