いばらの森
「…もう消えちゃったじゃないか!」
アルフォンスはほとんど悲鳴のような声で言い返した。
「―――アルフォンス」
ひたり、と下から見据えて、エドワードは静かに呼んだ。
「落ちつけ。おまえが落ちついてくれなくちゃ、困る」
「落ちつけって…落ちついてられるわけないだろ?!何言ってるんだよ! …呼ぼう、とにかく大佐でも中佐でもいいから、誰か呼ぼうよにいさんが! …ねえさんが、ひとりでそんなに、頑張らなくてもいいじゃないか」
「アル」
エドワードは背伸びして、腕を伸ばして、弟の頭を抱え込んだ。そして、母のような仕種で、一度その頭を撫でる。
「…大丈夫だ。オレは大丈夫」
「なにが…」
「わかるだろ。あいつらを呼んでたんじゃ間に合わないんだ。だからオレが行く。行先はちゃんと伝えて行く。だから、…伝えてくれ。それに、シーナもおばさんも置いては行けないよ。…おまえはオレの、…一番頼りになる相棒なんだから。しっかりしてくれなくちゃ、困るんだ」
「ねぇさん…」
「…それに…」
落ちついたらしいアルフォンスからそっと身を離しながら、エドワードはほんの少し照れくさそうに付け加えた。
「母さんが昔言ってたんだ」
「…?」
「ピンチの時には、必ず王子様が助けにきてくれるんだってさ」
ロイは、十数年前のエドワード誘拐事件に焦点を絞って調べを進めていた。「個人的に」それに協力してくれる者もいたが、基本的には自分でおおよそのことを調査していた。
少ない証言と国が管理している固定資産の台帳を許に、何人かの人間に絞りこんではいたのだ。その中に、確かにゲイルの名もあった。
ゲイル・フォスターはオカルトに傾倒している―――
という実しやかな噂は古くからあって、先祖伝来の莫大な富を相続した彼は、その怪しい研究に多くの財産をつぎ込んでいるのだと。彼の屋敷に上がった使用人が返って来る時は、物言わぬ体になっていることが常だと…。
中央の友人が、この名を聞いた時鼻の頭に皺を寄せたのは、そういった背景があってのことだった。ゲイルには、若い女の生き血を啜るという噂まであった。
そんな彼が「錬金術」という魔法のような科学に興味を持ったのは、ある意味で自然な流れだったのかもしれない。…ごく真っ当な錬金術師にとっては、迷惑この上ない話だが。
ゲイルには常に黒い噂が絶えなかった。しかし、決定的な証拠もなく、また、何か核心に迫るようなことがあっても、金でもみ消されて終わりだった。
…つまり、アルフォンスがヒューズに連絡した時、そしてヒューズを通してロイに連絡が回ってきた時に、既にゲイルに関する資料はある程度揃えられていたのである。勿論、他の数人分も揃えられていたから、そちらは無駄になってしまったわけだが…。
物も言わず机を殴りつけた上官に、部下一同の視線が集まる。
「…。中尉」
ロイがやけに真面目な声で呼ぶので、リザの背筋も思わず伸びた。
「申し訳ないんだが、休暇の調整を頼む」
「は…、それは…、勿論結構ですが、いかがされたのですか?」
「―――プライベートだ、…と言ったら」
「…。差し出た口を利くようで申し訳ありませんが、もしもエドワード君絡みであれば、そう仰ってください。どんな手を使ってでも、どこから見ても問題のない形で休暇をご用意いたします」
きり、と凛々しく目元に力をこめて、中尉は言った。驚いたのはロイである。
「―――大佐はご存じないかもしれませんが」
呆気にとられた顔をするロイの前、リザの背後で、ハボック以下彼の懐刀達が不敵な顔をして立ち上がる。見ればハボックの手には車のキーがあるではないか。ロイはまた眼を丸くした。
…そんなにも自分はわかりやすい人間だっただろうか?
「…私達、皆『彼女』のファンですのよ?」
「………。……、…!」
あまりの展開に一瞬呆けてしまったロイだが、遅れて「彼女」の単語が脳まで到達し、息を飲んだ。しかしリザは上司のそんな態度を笑うことはなく、それは他の部下にしても同じことだった。
「確かに公私の混同は避けていただきたいと思いますわ。けれど、結局は同じことでしょう?そうではありませんか。自分の本当に大事なものが掛かっている時にそれを投げ出せるような人に、私達は本当に命を預けられるものでしょうか?」
それに、と彼女はいくらか悪戯っぽく付け加えたのである。
「大事なものを持たぬ人が、身命を賭して何事かに向かえるとは、私にはとても思えないのです」
催眠術の一種だろうと、エドワードは理解している。
…あの指輪を見た瞬間、あれが錬成陣であることを連鎖的に「思い出した」。そして、陣を発動させ、あの紋章を目にした瞬間に、本当にすべてを「思い出した」のである。
つまり、あの紋章が鍵だった。それを目にすることで、エドワードの中で封じられていた記憶が蘇るよう、あるいは、植えつけられた知識の栓が取られるように、あらかじめ仕掛けられていたのである。それはあの、攫われた時に。
…アルフォンスには言わなかったけれど、本当は、なぜ家に返されたのかももう思い出していた。
どんなに何を偽ろうと、もう印をつけた。どうやって姿を変えても名前を変えても、ごまかすことは出来ない。そう、言われた。
―――だから今はおまえを家に返そう。そして目を瞠るような成長を見せておくれ。おまえが十五歳になったら、迎えに行こう
なぜ十五だったのかまでは知らないが、まだ三歳にならなかったエドワードに、そう言ってあの男は笑ったのだ。
ゲイル・フォスター。
古い先祖が得たサーの称号を、自身も受け継いでいる。もはや貴族も消えて久しい軍国主義のこの国では旧時代の遺物であろうが、その蓄えた資本はけして侮れない。
彼の興味は、いかに自分が長く生き、財産を守り通すかという点と、いかに長く生き、己の暗い欲求を満たすか、という点に向いていた。
一見どちらも似た物に思えるが、前者の方がそれでもまだ、一般的に理解しやすい願望である。なぜなら彼の欲求、彼の嗜好は非常に偏った物だったからだ。
幼いエドワードが目にし、悲鳴を上げたのは、けして幻影ではなかった。彼は本当に、何人もの人間を己の欲望の赴くままに害していたのだ。そして、その血を口にしていた。若さを保つためだと彼は信じているらしい。
およそゲイルの欲望とは、真っ当な人間であれば顔をしかめる物ばかりであった。エドワードはその全てを教えられたわけではないが、身の毛もよだつものだったことは覚えている。人間の首に首輪をつけて獣のように這わせて愉悦を感じるような、本当にどうしようもない人間なのだ。いや、あれを人間と認める事は、人類に対する途方も無い侮辱にも思える。
彼は、不老、いやもっと言うなら不死を欲し、その方法はどこかにないものかと考えた。そうして辿りついたのが、錬金術だったのである。
そしてゲイルは、錬金術師の派閥の中でも、…そもそも派閥というものを作るあたりから何か推し量れる物があるわけだが、危険思想というか、錬金術師は特別な人間であると信ずる連中のスポンサーとなった。 力ある錬金術師は、優秀な錬金術師の血脈にこそ生まれる。
そう信じる、愚かな連中。