いばらの森
彼等によってホーエンハイムの名がゲイルに伝えられ、その娘であるというエドワードにまで害が及ぶ事になったのだ。
人間としては真性の狂人という面を持つゲイルだが、頭脳は明晰だったようで、錬金術の教義もすぐに理解した。だが当然のことながら、「大衆のためにあれ」という理念は理解する事はなかった。
ゲイルがエドワードを手に入れて本当に何がしたいのかはわからない。彼はそれを、エドワードの記憶として残しはしなかったからだ。
だが、今コリンを攫い、エドワードがあの指輪を見るように仕向けたのは、あの男以外にいない。
ご丁寧に、あの指輪の錬成陣に地図まで託して行ったのだ。
「………」
エドワードは、厳しい顔をして夜行列車の窓の向こうを睨みつけていた。静かにしている分その整った容貌は明らかで、人目を引く事甚だしかったが、それでもその厳格な空気に圧されてか、列車の中では誰も近寄っては来なかった。ちなみに席は珍しくも一等の客席を利用している。そこなら余裕で空いていたのもあるが、どうせもう何も隠す必要がないからでもある。少なくとも、ゲイルに自分の動向を隠す理由は既になくなっていた。
アルフォンスと別れてこうやって動くのはほとんど初めてに近かった。今までで覚えがあるのは、国家錬金術師の試験を受けるために向かったセントラルである。だがあの時は、推薦してくれたロイ、(ロイの)護衛のリザと共に向かったから、本当のひとりではなかった。
…思えば、あの時のロイは意地悪で。
今あんな風にやさしげな態度を取られると落ちつかないのも、事実だった。
けれどもう、エドワードは知っている。彼が本当に意地が悪いわけではない事も、自分がもはや彼に対して反発を覚えていない事も。
それどころか―――
「…怒られそうだな…」
頬杖をつきながら、ぽつりとエドワードは呟いた。
口に出してみて、ああ、絶対に怒られるな、という確信に変わった。折角家まで用意してくれたのに。あんなに手を尽くしてくれたのに、結局エドワードはそれを台無しにしてしまったのだ。
「………。でも、これが解決したら、…」
ロイは元々、優れた錬金術師の娘、として狙われるエドワードを守るために、婚約者なんて面倒なものに立候補してくれたのだ。ということは、これでもしもこの件が解決したら、それで解消になってしまうのだろうか。
ロイは言っていた。いつでも解消していい、君の好きにしなさいと。だがロイ自身はどう思っているのだろう。
―――君が好きだ
不意に耳の奥に、あの告白が蘇る。
あの、深い口づけの記憶とともにだ。エドワードは知らず己の唇に指を這わせた。
…本当なんだろうか。今更だけれども。あれは、彼は、本気で。
「………」
エドワードは、ごそごそとポケットから綺麗に折り畳んだ小さな包みを取りだし、そうっと包みを開いた。
そこには、あの日託された指輪。
ロイが、母親の形見だと言って、つけてくれた指輪だった。
しばしの逡巡の後、エドワードは左の手袋を外し、慎重に指輪を薬指に通した。そして、慣れない仕種で、持ち上げた左手、指輪に軽く口づける。目を閉じ、祈りを捧げるように。
「………。…オレを、守ってね」
そうしてまた手袋をつけると、ぎゅっと手を握り締めた。
今はまだよくわからないことの方が多いけれど、ロイがくれた、彼にとってはどんな指輪より意味があるだろうこの指輪があれば、誰にも負けない気がしたのだ。
きっとコリンを助けて、エドワードも帰ってこれる。
悪い魔法使いなど、もう怖くはなかった。
高い尖塔を持つその城へは、自分の足で歩くことはなかった。一番近い駅に降り立った時、ずっと待っていたのか何なのか、既に馬車が待っていたからである。
辺鄙なその駅で降りる人間はエドワードしかおらず、彼女は、朝靄の中、陰気なその馬車へ迷うことなく近づいていった。
「…お待ちしておりました」
馬車の傍に揺ぎ無く立つ背の高い男が、低い声でエドワードにそう声をかけ、躊躇なく馬車の扉を開けた。服装からすると彼は御者らしい。
「………」
「主人がお待ちです。どうぞ」
「…。コリンは…あの子は無事なんだろうな」
こちらも低く問いかければ、男はなぜか小さく笑ったようだった。
「…何がおかしいんだよ」
「…失礼いたしました。…お可愛らしい方だと思ったもので」
「…。ほんとに失礼な奴だな。なんで子供の無事を尋ねて可愛いって答えが出てくるんだ。その方程式、絶対途中がおかしなことになってるぞ」
エドワードは冷たくぴしゃりと言い放つ。赤いコートが、ふわり、と揺れた。
「…主人は獣ではございません。そのお子さんなら、ご無事です。もっとも、貴女が一緒に来てくださいませんと、いつまでご無事かはわかりませんが」
「…ふん。…獣と一緒にしたら獣が気を悪くするぜ」
つまらなそうに吐き捨てて、エドワードは大股に馬車へ乗り込む。思い切り体を伸ばさねば、悔しいことに馬車に乗り込めなかったのだ。
「…大佐っ…」
エドワードがちょうど、夜行列車に揺られていた頃だろうか。ロイは、取るものもとりあえず、フュリーを伴いセントラル郊外のその家へと辿り着いた。
軍服を着てそこへ行ったのは、思えば初めてのことだった。
「…ロイ君」
アルフォンスに介抱され、どうにか意識を取り戻していたハートネット夫人が、そんなロイを―――好青年、という風だった仮面をすっかり捨て、軍人であるということを剥き出しにしてやってきたロイを見て、目を丸くする。いずれ堅い職業についたのであろうとは予測していたが、まさか軍人だったとは…。
「…、ミズ・ハートネット。ご無事で何よりです」
ロイは口調を改め、すこし困ったようにそう言った。
「大佐、ボク…!」
「わかっている。…あの子のことは、私に任せなさい」
「でも…!」
ロイは首を振り、アルフォンスを別室へと促すべく、少年の鎧の腕を掴んだ。
「…フュリー」
ジェシカを休ませていたリビングを出しな、ロイは、連れてきた童顔の部下に目配せしていった。
…ここにいるのは、アルフォンスの他は、ジェシカとその孫娘のシーナだけだと聞いていた。ハートネット氏は地域の役員の活動で今夜は帰らない予定なのだという。シーナの母親、ジェシカの実の娘であるマーガレットは看護婦で、その日は夜勤で帰らないことになっていたのだ。ちなみにシーナの父親は亡くなっているという。軍人だったのだと一度聞いたことがある、と、エルリック姉弟はロイに言っていた。
なればこそ、童顔で人好きのするフュリーを連れてきたというのは、ないとは言えなかった。
「…アルフォンス」
「はい」
「…。ゲイル・フォスターという男は、以前から当局でも身辺を探っていた男なんだ」
「…やっぱり危険なんですか…!」
ロイは頷かず、腕組みをした。そして。
「…今、奴が所有する古城がある、西部の司令部と交渉している。一斉検挙の準備をな」
「…え…?」
「鋼のは絶対に助ける。だが、一度助けたくらいでは根本的な解決になるまい。だから、二度と再び、あの男があの子に近づくことのないよう、徹底的に潰す」
静かに、ロイは断言した。潰す、と。