いばらの森
アルフォンスはその研ぎ澄まされた刃のような空気に、ひやりとしたものを感じる。
「夜明けと共に作戦を開始する。実際の突入はなるべく早期実現を考えているが、明日は無理かもしれない。明後日という可能性もある。君には、その間、ここをフュリーと守っていてほしい。頼めるか?」
「…そっ、…ボクも行きます!ねえさんを放って…!」
「―――フュリーはあまり荒事は得意ではないんだ、アルフォンス。それに、ハートネット夫人とシーナをあのままにしてはいけないだろう?ハートネット氏も今夜は帰らないというし…」
「…それは、…そうですけど…」
ロイは、先刻一瞬だけのぞかせた酷薄な表情を消し去ると、困ったように、子供を宥めるように、アルフォンスに言う。
「頼む。そのかわり、私が必ず連れて戻ると約束する」
力強いロイの言葉に、アルフォンスは一瞬飲まれてしまった。そんな少年に、微かにロイは笑った。
「…必ずだ」
無線で西方司令部へ先行しているホークアイ・ハボック組と連絡を取りつつ、ロイは、一度セントラルに向かった。方向は逆だが、セントラル方面で一度ヒューズと会うことになっていたのだ。
「…すまんな」
ヒューズは、夜明け前の午前三時、真っ暗な中に車に寄りかかって立っていた。点滅して見えたのは煙草だったらしい。
「…まったくだ。今何時だと思ってんの?ロイちゃんは」
「…悪かった。本当に悪かった…」
「おまえほんとしおらしいな。よし、エドにもロイをちゃんづけで呼んでみろって言うしかないな」
「勘弁してくれ…」
自身もコートの袷を引き合わせつつ、ロイは溜息交じり答えた。
「―――ヒューズ、首尾は」
「誰に物言ってんだか? …ほれ」
ヒューズは無造作に、コートの内側、胸ポケットから一通の封書を取り出した。
「…恩に着る」
ロイはそれを丁寧に受け取ると、中を改めた。そして、一度開いた封を折り戻しつつ、軽く頭を下げた。
「助かる」
そんな親友の姿に、ヒューズもごく軽い調子で肩をすくめた。
「どういたしましてェ…」
「礼と言っては何だが―――」
ロイは、受け取った封書をしまいつつ、かわりにもう少し小さめの封筒を差し出した。
「…?」
怪訝そうにそれを受け取り、ヒューズは軽く口笛を吹いた。
「…おまえさんどうやって手に入れた?こっちじゃプラチナチケットだぜ。職権濫用か?」
ヒューズは封筒の中から三枚のチケットを取り出し、ひらひらと示して見せた。ロイは肩をすくめて笑う。
「おまえの都合がいい時に、こっちから出向依頼を出す。時期が決まったら宿も用意しておくさ」
ロイがヒューズに渡したのは、最近イーストシティの郊外にオープンした大型のテーマパークのフリーパスだった。ラジオでは連日大盛況が伝えられ、チケットは入手困難であることでも知られていた。だが、かのテーマパークはイーストシティにあり、イーストといえば東方司令部のお膝元である。…多少の融通は利くということだろう。褒められたことではないだろうが、いちいち厳しく咎めるのも馬鹿らしい話だった。
親友の破格の申し出に、ヒューズは口笛を吹いた。
「大盤振る舞いだな」
「『これ』に比べれば安いものだ」
ロイは、封書をしまった胸を叩きつつ、唇を意地悪く歪めて言った。
「間に合ってよかった」
「すまなかった、無理を言って」
「おまえさんの場合、いつでも無理だから気にならねぇよ」
ヒューズも喉奥でくつくつと笑った。
「じゃ、これはありがたくもらってくぜ。…エリシアちゃんが行きたがっててよ〜、喜ぶぜ」
やにさがる親友に、ロイは苦笑し、言った。
「令嬢と奥方によろしく。宿にリクエストがあったら教えてくれ」
そうして短い邂逅は終わり、ふたりはそれぞれ、反対方向に車を走らせた。あたりはまだまったくの闇であった。
「…これがほんとの闇取引、…なんてな」
口笛を吹きつつ、ヒューズはハンドルを切った。ロイもなかなか粋なことをする、と考え、彼は目を細める。喜ばしい変化だ。
「恋は人を変えるってね〜」
ふんふん、とヒューズは上機嫌に呟いた。そしてそれを最後に、朝一番、このチケットを見て大はしゃぎするであろう愛娘のことを思い、でれでれと顔をだらしなく崩したのであった。
ゲイルはいわゆる郷紳―――ジェントリであったから、西方司令部にも、親がその親に世話になったとか、そういう人間もいて、それがまた彼の逮捕に司令部が躊躇する理由のひとつでもあった。
しかし、彼の凶行はかなり昔から知られたものであり、近隣の住民達は彼が外に出る時は鎧戸を閉めて家の中で息を潜める日々を未だに送っていた。この近代の世の中にあって、だ。
西方司令部に先に到着していたリザ・ホークアイ中尉は、今や完全な無表情で押し黙っている。あれほどこちらの事情は伝えたはずなのに、こちらもかなりの強行軍を押して来ているというのに、今更になって逮捕は待ってくれと言われても困る。
「…中尉、落ち着いてください」
隣から、こそりとハボックが声をかけてきた。いつも飄々とした印象の彼だが、やはりその時も飄々としていた。口に出して何か言うわけではないが、明らかに不機嫌という空気を何者をも恐れず醸し出す上官格の女性に対して、彼だけは緊張したところが見られなかった。
…ふたりは、ロイと同時に、昨夜の早い時間帯にイーストを発った。途中までファルマンも一緒だったが、彼は別件で分かれている。大きな目的としては一緒だが、今彼は、ゲイルの城について現地で情報を集めているはずだ。そして東方司令部にはブレダが残り、連絡のまとめ役、および臨時参謀としての役割を果たしている。
ロイはフュリーを伴ってセントラル方面へ向かった。次に会う時には、上級監査官の委任状を携えて現れるはずだ。
ロイは、今の事態をある程度予測していた。なればこそ、調査という形でゲイルの城へ入る―――という「大儀」を作るため、監査官の委任状を発行させたのだ。良くしたことに、監査官の権限は基本的に軍法会議所にあるもので、その会議所には彼の無二の親友がいる。委任状は即時発行され、ヒューズが直接ロイに手渡す予定になっていた。
「中尉。ひとまずこちらでお休みになられませんか。…私は昔、あなたのおじいさまにはお世話になりまして…」
あからさまなご機嫌伺いに、さらに中尉の柳眉が跳ね上がった。彼女自身は特に吹聴して回るわけではない(別に隠してもいないが)血縁を持ち出されたことで、彼女のご機嫌はさらに崩れた。
脇で見ていたハボックは、まいったな、という風に顔をしかめる。沈着冷静な彼女だが、沈着冷静なだけではないのだ。
「結構です。それよりもフォスター逮捕に関してはどうなったのですか?担当者の方とはまだお話できないのですか」
リザの声はそれはもう底冷えしていた。東方司令部にはここまで彼女の機嫌を逆なでするような馬鹿はいないので(強いて言えばロイしかいない。彼はたまに書類の回答期限を意図的に忘れることがある)、ハボックとしても対処に困るところである。
「いやぁ…それは…」