いばらの森
少佐を示す徽章をちらりと確かめ、おいおい頼むぜ、とハボックは内心思った。年齢で言えばハボックの父親くらいだろうか。ますますもって「頼むよ」と言いたいところである。
「失礼します。よろしいでしょうか」
西方司令部の少佐殿が頼りにならないことに溜息つきたくなりながら、ハボックは控えめに声を発した。
「なにか」
あからさまにほっとするなよ、という突っ込みは心の中に押し留め、ハボックは真面目な顔をして少佐殿に向き直る。
「一度東方司令部に連絡を入れたいのですが、通信施設をお借りできないでしょうか」
「あ…あぁ、ああ使ってくれたまえ。今案内させよう」
「ありがとうございます。中尉」
ハボックは敬礼した後、リザに目で合図する。
「…私もそちらへよろしいでしょうか」
「勿論ですとも! 今係の者を呼びますので、少々お待ちを…」
自分の方が官位が上だということを、わかっているのかいないのか。あまりにあからさまな擦り寄りに、さらに中尉の機嫌が降下するが、少佐は多分気付いていない。
「…宜しくお願いします」
低い低い、冷たい声に引きつる顔を、必死に笑顔にするのに精一杯で。
通信機の使い方(設備としては同じものなので機能について尋ねることはないが)を聞いた後、通信士を一度下げて、ハボックは椅子に腰を下ろした。
「…一応、ブレダにフュリーから連絡入ってるかもしれないので」
そうリザに断り、ハボックはヘッドセットを付ける。付けながら、少々ごつい感じの腕時計で時間を確認した。
「…もう大佐はこっち向かってますかね」
予定では、夜明け前にロイはヒューズと落ち合うことになっていた。今は朝の七時。向かっている途中か、いったん休憩を取っているか。まあ彼の性格と今かかっているのがエドワードの身の安全だということを考えると、とても休憩などとっていないかもしれないが…だが途中で汽車に乗り換えない限り、給油は必要である。幹線道路の地図を思い浮かべながら、ハボックはロイの現在地を予測する。
「…なんだか派手な時計ね」
と、ぽつりとリザが言うので、…珍しいことだったので、ハボックは「は?」と間抜けな声を出してしまった。
「クロノグラフ」
「あ、…いや、その。…すんません、ちょっとちゃらちゃらしてるかなーとは…その」
確かにハボックの腕時計は若干目立つものだった。かつて交際相手からもらった(…無論過去の)ものなのだが、妙に腕にはまるので愛用しているのだ。
「見やすそうだと思ったの。私もそろそろ時計を変えなくてはと思っていたから気になって。…ごめんなさいね、急に」
中尉は淡々と述べ、軽く肩をすくめた。別に普段忘れているわけではないのだが、急に、そういえば中尉って女の人なんだよな、とハボックはなぜか感慨深く思った。
「中尉の時計は、なんか中尉らしい感じですよね」
コードを合わせつつ、ハボックは言った。
「私らしい? …そうかしら、考えたことはなかったわね」
赤みの強い革のベルトと金の留め具、フェイスは確か白蝶貝。文字盤は極シンプルに。一言で言うなら、機能的といった印象の腕時計がリザのものだった。
「チェーンじゃないのが中尉らしいかな、と…、っと、ここか」
ダイヤルを留め、ハボックは一度中尉を見上げ、特に意図はなくほんの少し目を笑う形に細めた。
「ベルトが?」
「ええ。なんか、かちっとはめて、動かないでしょう。チェーンだとどうしてもこう、なんていうんですかね、…、と、こちらハボック少尉」
通信に意識を切り替えた少尉を、ぱちりと瞬きしてから中尉は見つめた。そして、気付かれないよう目を細め、わずかに微笑む。
(近くにいるのが大佐でなければね…)
この細やかさや愛嬌は特に、彼にはないものだろうし。比較される相手がロイでさえなければ、そして本人がもう少し妥協できる性格なら、ハボックは引く手数多に違いない。
惜しいわね、とリザは口元を押さえ、小さく笑うのだった。
ロイが西方司令部へ到着したのは、昼近くなってからのことだった。襟元を緩めつつ、彼は幾分獰猛な雰囲気で笑ったものである。大体予想通りだ、と。
動けるようなら先にフォスター家を包囲していてもいいぞ、と言っておいたロイであったが、そうはならないだろうな、と踏んでいた。そんなにすぐ動けるようなら、ゲイルが犯人としか断定できない誘拐事件や殺害事件が中央でも問題になる前に、何とかしているはずである。大体被害者が泣き寝入りするしかなく、ヒューズなどは歯痒く思っていたという。
「―――とりあえず一個小隊をお借りしたい」
監査官の委任状を示したロイの要求に、西方司令部は困惑を隠しきれなかった。確かに問題のある男だが、ゲイルは私人である。その逮捕に監査官の委任状とは。…とはいえ、それがあれば、公に調査の手を入れることが出来る。勿論強行突破も出来なくはないのだが、相手が名門の末裔であり、政財、軍の高位の者にそれぞれ繋がりを持つということで、後で文句のつけようがない形をロイは用意したのだった。
「私はあくまで、中央から委託を受けここにいる。無論東方の我が司令部から小隊を呼び寄せても問題はないのだが、越境になる。出来れば無用の騒乱は避けたいものですね…お互いに」
人好きのする笑みを、ロイは浮かべた。しかし黒い目の奥には射すような光がある。西方司令部の司令官代理(司令官は休暇中で、南部へバカンスに出かけているらしかった。それがまたリザの癇に障っていたようで、ロイが来た時の彼女の無表情っぷりといったらなかった)は脂汗をかきつつ、それはもう、とおもねるように笑った。
「フォスターは国家錬金術師と民間人の幼児を略取、監禁している疑いがある。まずはその調査という名目で入り、そのまま逮捕に踏み切る。泣き寝入りに終わった事件も多いと聞く…さすがに軍としても、これ以上放置しておくわけにはいかぬでしょう。民衆の不満が高まるのは得策とはいえない」
「それは、もう、仰る通りです。マスタング大佐」
「では、本計画に限り私が指揮を執らせていただくが、よろしいか。詳しいことは部下に聞いていただきたい」
「イシュヴァールの英雄の指揮です。喜んで従わせていただきますとも」
司令官代理殿の媚に満ちた笑顔を見返しつつ、ロイは、ヒューズを通して人事に西部の堕落ぶりを垂れ込んでやろうかと不穏なことを考えていた。
…そういうことを考えていないと、今にも駆け出してしまいそうで、たまらなかったのだ。
膝に上げたコリンをしっかりと抱きしめながら、エドワードは炯々と光る目で相手を睨みつけた。
「…てめぇ何考えてやがる」
相手はといえば、ワイングラスを傾けつつ、皮肉っぽく唇を歪める。コリンは言葉を失い、ずっとエドワードにしがみついている。絶対にコリンを家に帰す、とその暖かく小さな体を抱きしめながらエドワードは改めて心に誓った。
「折角美しく装ったのだから、言葉遣いくらい改めたらどうだい。我が花嫁」
「誰がてめぇの花嫁だ、ふざけんなこのジジィ」