いばらの森
鍵盤の蓋に、鍵を差し入れる。かこ、と軽い音がして、鍵が上がるのがわかった。そのまま、ぱか、と慎重に蓋を開ける。
「…開いた…」
背後で少女がぽつりと呟くのに小さく笑ってから、ロイは、試しに指を置いてみる。
ぽーん、と記憶に残っている音がした。
なんでもこのピアノは、母が越してくる前からこの家にあったものらしい。使用人として父の家に上がった母だったが、なんでも父の祖母に気に入られ、彼女からピアノの手ほどきを受けていたそうだ。そしてそれが縁で父と出会ったそうで、…ピアノを見つめる母の顔は、いつも何とも言えぬ雄弁な表情だったことを憶えている。
「…。一度弾いてみよう」
長いこと触っていなかったから、本当は簡単にでも調律しなければいけないだろう。だが、すぐにも聞いてほしかった。この少女に。時間はいくらでもあるのかもしれないが、どうしても今。この時に伝えたかったのだ。
ロイはエドワードを振り返らず、ピアノの前に置かれた椅子に腰掛けた。そして、掌を鍵盤に滑らせる―――。
軽やかな旋律は、そう長い曲でもなかった。思わず踊りだしたくなるような、けれど家族で見つめる晩餐の蝋燭のような暖かさを感じる、そんな曲だった。懐かしいような、嬉しいような…。
「…Je te veux」
弾き終えてしばらくは振り返らず、ロイがぽつりと口にした。
エドワードは迷った後、片足でバランス悪く立ち上がり、ロイに近づく。気配で気付いたロイが、そこでようやく少女を振り返り、倒れそうになるエドワードを支えた。
「…なんて意味?」
本当は、聞かなくても、予感のようなものはあった。この曲に込められた意味、それは、もしかしたら、―――
「…。『あなたがほしい』」
ロイは、瞬きもせずじっとエドワードを見つめたまま、小さな声で言った。ほとんど音を伴わないような…。
「……………」
エドワードもまた、瞬きせずロイをじっと見上げた。その黒い瞳を。
そしておもむろに手を伸ばすと、そっと、男のすこしかさついた頬に触れた。
「…。私、エドワード・エルリックは」
小さな赤い唇が開いて、初めて聞く「私」という呼び方で、自分を示す。ロイは軽く目を瞠った。
「…病める時も、健やかなる時も、これなる男、ロイ・マスタングを、夫とし、愛し、敬い、尽くし、支え、慈しむことを、誓います」
さきほどの台詞の焼き直し―――もっと丁寧に言い直されたそれに、ロイは、咄嗟に言葉が出なかった。
そんなロイに、目元を染めてはいたが、やさしげにふわりと笑って、エドワードが首を傾げる。大佐は、とその目は言っていた。
だからロイもまた、息を吐いて、ゆっくりと口を開いたのだ。
「…私、ロイ・マスタングは。…これなる女、エドワード・エルリックを生涯の伴侶とし、病める時も健やかなる時も、愛し、敬い、守り、支え、慈しみ、…共に、歩むことを、誓います」
そこでふたりはじっと見つめあって。エドワードの目元はかわらずに赤かったけれども、…それでも、目を閉じて顔を寄せるロイにあわせて、エドワードも目を閉じる。触れ合うほんの寸前、少女はそして拗ねた声で言う。
「…大佐言葉増やした」
差をつけた、と悔しそうに響いた声は、すぐにロイの唇に飲まれて消えてしまった。