いばらの森
ふー、と口を尖らせ冷ましながら、エドワードはレモネードの表面を舐める。子猫がミルクを舐めるような、覚束ない仕草だった。
「…ちょっとすっぱい。匂いは甘いのに…」
そう言って、エドワードは少しだけ笑った。その笑みに、ロイも目を細める。
…なんだか居場所がないような思いを味わうのはアルフォンスである。なんだろう…まるで恋人同士の間に割り込んでしまったような居心地の悪さを感じる…。
「そうか。…蜂蜜をもう少し足すか?」
「…ん、…いいや。このままで」
こく、とエドワードはそのレモネードを嚥下する。
「…あったかい。…なんかほっとする」
「そうか」
ロイは穏やかに笑った。
そんな顔を見たのはアルフォンスにとっては初めてのことで、もしも今瞬きする生身の瞼があったなら、痛くなるくらいに瞬きしている気がしたものだ。
「…。さて…」
ロイの声がわずかに改まったものになる。しかしその声にピクリと震えたエドワードの肩を認めて、ロイは苦笑した。
「緊張しなくていい。落ち着いて。…なぁ、鋼の。一体どうしたんだ?何か辛いことがあったか?」
エドワードは目を伏せて、自分の瞳の色と似たレモネードの表面に影を落とした。そして、力なく首を振る。
「誰かが君に、ひどいことをした?どうしたんだ…泣くほど嫌なことがあったんだろう?」
「………」
ロイの尋ねる声は、やさしく、そして落ち着いていた。小さな子供に尋ねるように…あるいは、犯罪に巻き込まれた女性に対するように。
「…ほんとに、…ない、なんでも…なんでもない」
やがてぽつりとエドワードは呟いた。
「にいさん!」
そんなエドワードに、脇から焦れた声を上げたのはアルフォンスだった。
「なんでもないわけないでしょ?なんでもなくてどうして泣くんだよ?しかもにいさんが」
にじり寄るアルフォンスを制したのは、向かいに座るロイだった。彼は片手を上げて、抑えなさいとアルフォンスに伝える。そして、背を屈めて、エドワードの顔をのぞきこむように少し身を乗り出した。それから、穏やかに笑ってみせる。
「…言いたくないことなら、無理に言わなくていい。だが、もしも我慢しているなら、言ってくれないか。君がひとりで抱え込んで、我慢している方が、私達には辛いんだよ」
噛んで含めるようなその言葉に、エドワードの肩がぴくりと揺れた。
「それとも、私たちには言いたくないようなことか?たとえば…そうだな、ホークアイ中尉だったら言えるかい? …同じ女性だったら?」
ロイは焦らずに続けた。
普通の刑事事件に軍が直接関わることはまずないが(それは憲兵の管轄である)、皆無ではないし、たとえば犯罪に巻き込まれた女性などは、男性の軍人、あるいは憲兵に事情を話すのをためらう場合がある。特に性犯罪などにおいてそういったケースが多く見られる。
考えたくはないが、もしも彼女の身の上にもそういった、男性には言い辛いようなことが起こったのだとしたら―――?
穏やかな眼差しを崩すことなく、ロイは思った。もしもそんなことがあったのだとしたら、…そんな考えることすら頭が拒否しそうな何かがあったのだとしたら、きっと許せないだろうと。犯人を八つ裂きにしても飽き足りない。
だが、今の段階ではそんなことはわからないし、リザを経由して伝えられたアルフォンスの証言からも、そういった何か嫌な事件は起こってないと考えてよいはずだ。
「……。…ううん」
じっと見つめているロイの前で、ややあって、エドワードはゆっくり首を振った。
「…。…あの…あのな。…オレ、ふたつかみっつの頃、攫われたって…言ったよな」
エドワードは顔を上げ、目元をぎゅっと細めて口を開いた。
「あぁ…」
「うん。小さい頃、母さんが『アルも気をつけててね、お姉ちゃんを守ってあげるのよ』って言ってたやつだよね。それ」
さすがに「まあ今も小さいけど」とは言わず、アルフォンスは思い出を披露した。
「…。あんまり憶えてないんだけど…、オレ、どっかの…山奥の城みたいな…なんか気味悪いところにつれてかれて…」
ロイは、何も言わずただ、膝の上で固めていた手に力をこめた。
やはり、と思ったのだ。やはり憶えていないなどということはなかったのだと。あの嵐の夜、憶えていないといった彼女の言葉は虚勢だったのだと…。
「そこ…、そ…こ、…そこ、は…」
カップを握る少女の手がかたかたと震えだした。目に見えて、顔色が悪くなる。慌てて隣からアルフォンスが腕を出し、向かいのロイも立ち上がり、エドワードの脇に滑り込むようにする。彼はカップを取り上げ、そのまま白い手を握る。手袋をはめられたままの両手を。すると思わずといった様子でエドワードがそんなロイの手をぎゅっと捕まえたので、ロイは、エドワードの手を引き、肩を抱いて頭を胸にしまいこんだ。アルフォンスは反対側から、エドワードが脱いでいた赤いコートを背中にかけてやる。
顔色を失ってかたかたと震える小さな肩を、背中を、揺れる頭を、小さな子供をあやすように、ロイは何度も撫でては下ろす。大丈夫、怖くない、と繰り返しながら。自分の体温があまり高くないことを今ほど悔やんだことはない。それくらい、その時のロイは、震える少女を安心させてやることしか考えていなかった。
「そこは…あそこには…」
「いい。言わなくていい。それよりも落ち着いて、息を吸って…」
ぶんぶんと、ロイの胸に額を寄せたまま、エドワードは首を振った。
「…あそこにはひ、ひと…ひとが、…たくさん…っ…」
そこでエドワードの手が伸びた。その手はぎゅうとロイの胴に回される。目の前の男の体にしがみついて、エドワードは苦しげに搾り出す。
「人がたくさん死んでた…! こ、ころ…ころされて…!」
「…エドワード、いい、喋らないでいいから」
「はだ…はだかで殺されてる人がいっぱい…積まれて、山みたいに…オレ怖くて、気持ち悪くて泣いた、お母さんて、泣い、た…」
ロイは、エドワードが顔をうずめる胸元が温かく湿っていくのを感じた。泣いているのだ。いや、泣いていると言うのは少し違うのかもしれない。生理的に受け付けない何か、恐怖とか嫌悪とかいったものを想像して、そのことによってそれを受け付けられない精神が涙を流させているのかもしれなかった。
「…たすけて、」
「大丈夫、大丈夫だ、そんな怖いところに君をやるものか」
「た…たすけて、オレあんなとこ、い、いき、いきたくない…っ」
「大丈夫、大丈夫だ、怖いことは何もない…」
しがみつく子供をぎゅうっと抱き寄せて、ロイは慈しみのこもった声で何度も繰り返す。大丈夫、怖くない、と。
「…オレ、のこと…待ってたって、…大きくなるの、待ってたって…」
「…待って…?」
「…指輪がちょうどよくなったら迎えに行くって…」
「指輪…?」
「知らない、オレそんなの知らない、いらない…! …ぃ、…いやだ…怖いところになんか、いきたくない…」
ロイは、苦しげに目を眇めて、よりいっそう力強く小さな肩を抱き寄せた。