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いばらの森

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 …幼児体験とは、忘れ難いものである。ましてそれが恐怖と直結する感情なればなおさらだ。だが、それは一般に、記憶というよりも印象として残ることが多い。よく、小さな頃に溺れると、その時のことは憶えていなくても体が竦んでしまうということがあるが、大まかに言うとそういうことだ。
 案外、本当にエドワードは忘れていたのかもしれないとロイが思ったのはその時だった。こんなにも怯えているのだ。本当に、記憶の底に封じていたのかもしれない。だからこその恐怖、動揺なのかもしれないと。
 その時の恐怖だけがただ身に染み付いて、悪夢のように彼女を苛むのではないかと。
「大丈夫だ。…言っただろう?私は君を守ると」
 やさしく問えば、しゃくりあげながら、ちらりとエドワードが顔を上げる。その金色の目は可哀想なくらいに怯えていた。普段のエドワードからは考え付かない姿である。それだけに、憐れさが胸に湧いた。
「どこにもやらないさ。…大丈夫だ」
 安心して欲しくて、それが庇護欲であろうが父性愛であろうがただの友愛であろうが、もうそんなことはどうでもよく、ただ笑ってほしくて、ロイは目を細め、金糸の髪をそっと撫でた。
「…たすけて」
 幼い口調が、もう一度そう紡いだ。
 誰にも助けを求めたことのない勝気な少女が、誇りをかなぐり捨てて縋ってくる。そこにある恐怖はいかばかりか、それを思うと胸がひどく痛んだ。
「ああ。勿論」
 その弱々しい手を掴んで、安心させるべく、男は落ち着いた笑みを浮かべてみせたのだった。

 泣いたら落ち着いたのか、それまでの疲れが出たらしく、しばらくロイにしがみついていたエドワードだったが、そのままうつらうつらとし始め、程なくして本格的に眠りに落ちてしまった。
 外はもう夜である。
「……あの。…ありがとうございます」
 沈黙を先に破ったのは、自分達の少なくはない秘密を知りながら、それでも後押ししてくれる男を見つめるアルフォンスだった。
「…何がだい?」
 腕に抱いた少女を起こさないよう、潜めた声で、のんきな調子ではぐらかす男に、アルフォンスは首を振る。
「…にいさん、ここのところずっと、夜もうなされてて…日中もぼーっとしてるし、いつも以上にボクの傍を離れようとしないし…あの時は本当に真っ青になっていたし…でも、何度聞いてもちっとも理由なんか話してくれなくて…」
「………」
「だから、…ありがとうございます。…にいさんを、…」
 そこで彼は言いよどんだ。聡明な彼にしてはらしくないが、ロイは、黙って続きを待ってみる。
「…姉を、好きになってくれて、…ありがとう」
「………!」
 そして待っていた言葉の予想外の内容に、ロイは目を瞠った。まさかそんな風に言われるとは思っていなかった。
「…アルフォンス…?」
「たったひとりの姉ですから。どうせなら、大事にしてくれる人を好きになって、その人も姉さんを好きになってくれたら、…こんなにいいことはないじゃないですか」
 鎧に表情はないはずだが、ロイには、その時、少年が寂しげに微笑んでいるような気がした。なぜそう思ったのかは自分でもわからないが。やがて少年は、訝しく思っているロイの前で、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「…。もしも、大佐。もしもボクらが…」
「…アルフォンス…?」
「もしもボクらが…目的を叶えることが出来なかったら」
「…!」
 落ち着いた声でもたらされたひとつの恐ろしい可能性に、ロイは息を飲んだ。
「お願いします、姉のこと…」
「…何を、…君は」
「―――まあ、あっさり負け犬になる気もありませんけどね。ボクは…可愛いお嫁さんをもらって小さな白い家で犬を飼って日曜には花壇の手入れをするような、そういう普通の生活をする予定でいますし」
 冗談めかした声に、ロイは瞬きし、自分の半分よりも若い少年の気遣いに苦笑した。
「では、私も、君の家に招待してもらう日を待っているよ」
「ええ。大佐が悔しがるような幸せで平凡な未来を歩む予定ですから。楽しみにしていてくださいね」
 ぷ、とロイとアルフォンスはそろって噴出した。
「…大佐」
「ん?」
「どうか、…ボクをうらやましがらせるような、…そんなふたりになってくださいね。大佐にはきっともっとお似合いの人がいるでしょうし、まだまだ人生は長いから、姉だって気持ちが変わらないとは言い切れない。…でもね、大佐。あんな風に…姉さんが誰かに助けてなんて言うなんて、本当に今までなかったことなんです」
「………」
 ロイは、抱きしめたままの少女のつむじを見下ろし、目を細めた。小さな体も温かい体温も冷たい鋼の義肢も。何もかもが、…何もかもがいとおしく思えた。ただそれだけでいいのだと思えるくらいに。
「…私も初めてだよ」
 そうして、ぽつりと呟く。
「…誰かに、ここまで泣いてほしくないと思ったのは。…この子には、いつでも笑っていてほしいよ…私はね」
「…大佐」
 顔を上げれば、アルフォンスは微笑んでいるように感じられた。やはり、雰囲気だけだが…。
「―――早くボクに『義兄さん』て呼ばせてくださいね」
 この言葉にロイはぱちぱちと何度も瞬きをして、それから、照れくさそうに苦笑したのだった。




 汽車を乗り継いでセントラルを目指し、この国の全ての汽車の発着駅である中央駅の手前で降りた。そこからは手配しておいた車に乗り、郊外へ出る。一時間も走らせた頃には、中央とも思えぬような長閑な田園風景が広がっていた。
 懐かしさを帯びる雰囲気に目を細めるエドワードをちらりと流し見、ロイはほんのわずか自嘲気味の笑いを口の端に浮かべてから、正面に向き直る。
 目立たぬ私服に身を包み、今彼はその車を運転していた。
 ちなみに今この車中にはロイとエドワードしかいなかった。アルフォンスは別ルートからこちらと合流する事になっている。彼は今、ハボックとこちらへ向かっているはずだった。
 とにかく、エドワードを幼児期に誘拐し、今また接触を持ってきた人物の正体が知れず、相当に不気味なものであること、単独ではなく仲間(手下?)がいることなどから、手っ取り早くエドワードを人知れず隠してしまう作戦が取られたのだ。
 彼女はしばらくの間、中央の郊外のある小さな田舎町に、弟と一緒に身を潜めることになったのだ。常に傍にいるのはアルフォンスだが、向かいの家が現役の憲兵宅ということで、少しは安心だった。ロイや司令部の人間も時間を見つけて訪れることにはなっているが、あまり頻繁でもかえって目立つので、そのあたりは今から調整することになっている。また、中央の郊外ということで、非番の日には遊びに行って様子を見てくれと、ロイはセントラルシティ在住の親友にも頼み込んでいた。実際、彼ほど頼りになる男はいないのだ。あらゆる意味で。
 そういった計画がエドワードが寝ている間にロイからアルフォンスへ伝えられ、細かいところはふたりが話し合って調整し、―――エドワードが目覚めた時には既にすべてが決していた。
 そうして、ロイとエドワードはふたり、その田舎町へとやってきたのだった。
作品名:いばらの森 作家名:スサ