いばらの森
それは腕にしても同じで、ブラウスの先の手は白い少し厚めの生地で作られた手袋で覆われていた。こちらも、上品でありこそすれ、不審である筈がなかった。最後にゆったりと赤を地にしたタータンチェックのストールを肩から羽織れば、ちょっとしたいい家のお嬢さんといった風情で、間違っても小型台風と呼んでも差し支えない国家錬金術師には見えそうもない。カーディガンでも着たらどうかと薦めたロイに、あまり寒くないからと答えたエドワードは、持たされていたストールを折衷案として引っ掛けていた。ブラウスはそこまで薄手の生地ではないので大丈夫だと思うが、機械鎧が透けないとも限らない。
そんな少女の傍らに並ぶのは、かっちりしたワイシャツとシンプルなスラックスの若い男。少し髪を上げて流したその面は端正に整っていた。ノータイ、ではあったが、印象としては、堅い仕事についている人間特有の空気を纏っていた。結局ジャケットは着ないことにしたようだ。彼もどちらかといえば、暑さ寒さには随分耐性がついた人間だ。職業柄…。
二人の間には似通ったところはなく、それだけに、見る者の想像を否応なくたくましくさせる。少女の方はいくらか幼く見えたが、ふたりともかなり見目良い方だ。それが余計に彼等を目立たせた。ただ、本人達がどこまでそれに気付いていたかは微妙な線だった。
「こんにちは」
ノックをしながら、ロイは丁寧に声をかけた。程なくして、どちらさま、とわずかにドアを開けて返してくれたのは、五十代くらいの女性だった。
彼等が最初に尋ねたのは、小さな館の右隣の家だった。ちょうど、庭を挟んですぐ向かいの家で、低い垣根を取り払ってしまえば同じ敷地になりそうなほど、近しい位置にある家だ。素焼きのような瓦が素朴で可愛らしい家である。
「突然申し訳ありません。今日から隣に越して来た者です」
エドワードは、予め、ロイが声をかけるまで黙っているように言われていたので、とりあえず大人しく待っている。
初老の女性は首にかけた眼鏡を引っ掛けて、まじまじとロイを見つめ返した。そして、首を捻る。
「お隣って、…あなたマスタングさんの?」
この問いかけに目を瞠ったのはエドワードであった。ロイはといえば、少し寂しげに笑った。
「ええ。…表札のお名前が変わっていないのでもしかしたらと思ったのですが、…ミズ・ハートネット?」
え、と目を見開く女性に、ロイはうっすらと笑った。
それは思わず、エドワードでさえ見惚れてしまうような、そういう笑みだった。この男の場合、そういう笑顔はもう本能に染みついているのかもしれない。
「ロイです。ロイ・マスタング。…昔、お宅の桜の木の枝を折ってしまった…」
「…ロイ…、…ロイ君?あなたロイ君なの?」
目を見開いて声を大きくする女性に、ロイはいくらか恥ずかしげに笑った。
「はい。ご無沙汰しております。今までご挨拶もなく、すみませんでした」
「いいのよそんなこと、…あら、あらあら、まぁ〜…立派になって!」
気のよさそうな老婦人は、にこにこと笑いながらしきりとロイを誉めた。なんだか入りづらく、居心地が悪くて、エドワードはロイの斜め後ろでもじもじする。
…しかし「ロイ君」とは。あの家がどういう経緯で今回選ばれたのかロイは言っていなかったが、どうやら過去、彼があの家に住んでいたのが直接の決めてだったのだろう。しかも、ロイのその過去を、推論の域は出ないが多分誰も知らない。それは目の前の老婦人が今のロイの身分を知らなそうな事と、ロイの出身がどことも知れないことからも明らかなように思える。
大体どんな人間もどこの出身という…、何か匂いのような物があるものだが、ロイに限って言えばそれがなかった。それをエドワードは感じていたが、今まで気にしたこともなかった。だが考えてみればおかしな話かもしれない。ここまで異例の出世を遂げている人間の素性が、謎だなんて。
「あら?そちらの可愛いお嬢さんは?まさかロイ君の娘さんじゃないでしょう?」
思わず間抜けな声を上げそうになりながらも、エドワードは困ったように微笑して小さく会釈した。…対処に困ったらそういう風にしたらいいと言われていたのだ。
「まさか…」
ロイは苦笑し、半身になると、そっとエドワードの背中に手を回して前へ押出した。
「私と一緒で童顔なので、もしかしたら随分幼く見えるかもしれませんが…」
ロイはそのように前置きしてから、一呼吸ついて、マダム・ハートネットを見た。少女の薄い背中を支える手に力をこめて、ゆっくりと口を開く。
「…私の婚約者です」
「…まぁ!」
マダムは老眼鏡の下で何度も瞬きし、口を手で覆った。エドワードはといえば恥ずかしくなって、頬を染め俯く。恥ずかしいというか、いたたまれない。けれどロイはそんなエドワードを本当に大事そうに目を細めて見つめる。
なんとも、…初々しい。エドワードだけはその光景が人に与える印象に気付いていなかったが。そしてロイは気付いていたが、大事なことに間違いはないので、特に改める必要も覚えなかった。
「まぁ〜…まぁ!」
ハートネット夫人は、ぱん、と両手を合わせて目を輝かせる。どこか少女めいた仕種だった。
「なんて素敵!お式はいつなの?こちらが新居になるの?おふたりの馴れ初めは?ああ、本当に素敵ね。主人今日は遅いのよ、いたらきっと喜ぶのだけど」
娯楽の少ない田舎である事を差し引いても、夫人の勢いはすごかった。まったく善意からであるとわかるのがせめてもの救いだが。
「…マダム。…実は、彼女は体を壊してしまいまして…普段は私も彼女もセントラルにいるのですが、空気も悪いでしょう?治安も悪いし…。ですからこちらで療養をと…」
ね、とエドワードに尋ねるロイの態度は自然な物だった。まさか夫人もこれが打ち合せなしの即興であるとは思うまい。何しろ当のエドワードにだって思い難いのだから。
「あら…」
そして善良なハートネット夫人は、我がことのように眉を曇らせる。エドワードは段々申し訳なくなって、自分のつま先を見つめた。
「では、お嬢さんがこちらにおひとりで…?」
婚約者ということは婚前である。未婚の女性がいくら婚約を交わしたとはいえ男性と一つ屋根の下など言語道断―――少なくともハートネット夫人の良心はそう言っていたし、この田舎ではまだそれが当然だった。
しかしそれを存ぜぬロイでもない。
「いえ。ひとりでは不安でしょうし…まだどうやら道中混雑しているのか到着していないのですが、彼女の弟が一緒に住まう事になっています」
「まあ、弟さんが?」
「私も週末などは…休みを作って様子を見に来ようと考えていますが、あまり頻繁にも来られないと思うのです」
ですから、と彼は続けた。
「何分彼女にとっては不慣れな土地ですし、色々と面倒を見てやっていただけないかと…」
君からもお願いしなさい、とでも言うように、ロイは少女の背中を押した。エドワードは、赤い顔のまま、それこそ蚊の鳴くような小さな声で「よろしくお願いします」と頭を下げる。
計らずもその姿は「病弱」に見えた。