方舟の夜
不意にこみ上げてきたのは、父性愛…のような感情だった。と、少なくともロイはその時はそう思った。
この小さな生き物を、守ってやりたい。
それは初めて感じる衝動で、ロイにとってはあまりにも馴染みのない感情だった。きっと友人はこんな風に思っているのだろうな…と快活な髭面の親友を思い出しながら思ったりもした。
それから五分ほどもそうしていただろうか。
ロイは、エドワードのしゃくりあげる間隔が段々落ち着いてきたのに気付き、そうっと顔を覗きこんでみた。
すると、その気配に気付いたのだろう、エドワードがほんの少しだけ顔を上げ、上目遣いにロイを伺ってきた。
…長い睫毛には雨と涙が同等に絡まっていた。濡れそぼった金髪は、白い頬に張りついている。
「……落ち着いたか」
あどけない顔立ちには不釣合いなほど、どこか危うい磁力があって、ロイはうっかり手を伸ばしてしまいそうになる。勿論、…子供に触れる意味合いとは異なる衝動で。
「………」
じいっとロイを見つめていたエドワードだが、ややあって、こくりと小さく頷いた。途端、雫がぽとりと肌を伝う。
「………」
生唾を呑みそうになり、ロイはかなり慌てた。何をやっているんだ、自分は、と。
なるべく不自然に見えないように目をそらして、ロイは、再び問いかける。
「…事情は聞かないから、…とにかく。そのままでは体に障る。風呂を貸すから、入ってきなさい。服は私の物で我慢してくれ」
「…え、…」
「ここで脱げとはもう言わないから」
ロイは困ったように苦笑して、一度はそらした顔に、やさしげな視線を向ける。
それから―――もう暴れられては困るとばかり、きょとんとしているように見えるエドワードの膝裏に腕を差し入れ、もう片手は肩から背中を押さえて、さっさと横抱きに抱き上げてしまった。
「…っ!な、なに!」
「…外は本当に嵐なんだよ。出ていったら風邪くらいじゃ済まないだろう」
ロイの困ったような言葉は婉曲的だったが、大体言わんとするところは伝わってきた。要するに、…エドワードを心配してくれているらしい。
「…頼むから。着替えてくれ」
「………」
エドワードは、抱き上げられた腕の中、複雑な顔で後見人たる男を見上げる。
…別に(彼に関する)良くない噂の全てを信じているわけではないけれど、その時の彼は随分と誠実そうに、やさしそうに見えて、エドワードは心底困った。
―――好きになってしまいそうだったから。
エドワードをとりあえずバスルームへ放りこむのに成功したロイ・マスタング大佐。
…彼こそ実は心底困り果てていた。
「………落ち着け、落ち着くんだロイ・マスタング。…俺…じゃなかった…私は何をしに帰ってきたんだ。…そうだ。窓だ。とにかく窓を閉めよう」
ぶつぶつ言いながらふらふらと階段を昇るロイは、ちなみに未だに半裸である。彼こそが風邪を引くのではなかろうか。しかし、今彼にそれを指摘してくれる親切な人間はいなかった。
「…!」
そんなぼんやりしたロイではあったが、「ちょっとだけ」開けっ放しだったという認識でいた窓がちょっとどころでなく開いており、廊下は当然水浸し、窓ガラスも微妙に飛んできた障害物のおかげでヒビ入り気味…という状況に直面し、さらに呆然としてしまった。
人間、理解を超える事態に遭遇すると、大体こういう反応を示すものだ。けして彼がどうしようもなく間抜けだというわけではない。…きっと。
というか防犯の観点からも如何な物かと思える情況ではある。仮にも、軍の要職にある人間が。
しかし、暫し呆然としていたロイであったが、とにかくのろのろと動き出すと、とりあえず窓を閉めた。
「…っ」
が、廊下が激しく濡れていたので、足を滑らせ壁に激突してしまった。
…前言撤回だろうか。やはり彼はどこか間が抜けているのかもしれない。
壁に激突した弾みで廊下に積みっぱなしだった荷物などが崩れ、さらには折からの暴風雨も相俟って、結構大きな音と衝撃が家中に響く。
「つつ…」
ロイは激突した肩やら頭やらを擦りつつ、立ちあがる。そして心底うんざりした。廊下のあまりの惨状に。
呆然としながらも、まだ完全に閉まっていなかった窓を閉め、どうしたものかとロイが途方に暮れていると、何やらぱたぱたと軽い音がしてきた。
「…?」
仕方ないがとにかく拭いたり片付けたりしなければなあ、と鬱々としながらもそう考えていたロイの耳に、軽い音だけでなく軽やかな声も届く頃。彼の黒い目には、とんでもない光景が映し出される事に…。
「大佐だいじょぶかっ?」
本当にひどい音だったから(地震並だった)、気になるのはわかる。心配になるのも、まあ、わかる。
それは、わからなくはないのだが…。
「…鋼のっ」
ロイは思わず思い切り顔をそらした。声もどことなく上ずっている。情けないと言わば言え、本当に必死だったのだ。
「…大佐…?」
しかしエドワードはその理由がわからないらしく、不思議そうな声を上げる。どころか、一歩近づいてさえ着て。
「は、鋼の! …何か着てきなさい、服、…出しておいたから…!」
たまらないとばかり、目を背けながらロイは言った。この時ほど自分の鉄の自制心に感謝したことはないと言える。突き詰めて言えば、それを育んだ軍隊生活というヤツに。
「…? ……、………!」
そこでようやくエドワードにも理解できたらしい。息を飲んだのが聞こえてきた。
「…ご、…ごめんっ」
泣きそうな声で言って、もと来た道を引き返して行く、ぱたぱたという軽い足音。
「……」
ちらりと、そこでようやくロイは視線を正面へ向けた。
「……何の試練だ…?」
音に驚いたのだろう、エドワードはバスタオルを一枚巻きつけた格好で飛び出してきたのだ。男なら押さえないはずの胸をタオルで覆って、だが慌てていたのがよくわかることに、脇がはみでそうになっていた。豊満なというのには程遠いが、その体のやわらかみ、肌の瑞々しさは隠しようもなく、タオルがぎりぎり隠していた脚の付け根だとか、締まった足首だとか、…
「……まいった」
ロイは濡れた廊下にずるずると座りこんだ。
…よくぞ襲わなかったと自分を褒めてやりたい。
いや、断じて、そういう趣味もないし、そんな強引な手段は恥ずべきものと思っているが。
…が、理性は時として本能に駆逐されるわけで…。
「……はぁ…」
ロイは、深々と溜息をつかずにいられなかった。
とにかく窓を閉め、廊下も拭いて、自分はシャツを適当に羽織って、…深呼吸を三回くらいして、ロイは階下へ降りた。そろそろエドワードもバスルームから出てきているはずで、…会話をシミュレーションしたりするロイがいた。泣かれるのも外へ出ていかれるのもごめんだった。うまく言えないが耐え難い。
「…まず何から聞けばいいんだか…」
頭が痛いと思いながら、彼の足はとうとうリビングで止まった。
…止まって、次に思考が停止した。
「…あ、大佐、服ありが…」
振り向くエドワードはタオルで頭を拭いていた。それはいい。長い髪なのだ、乾かさなければやはり風邪をひくだろう。…そう、だから、それはいいのだ。
問題は…、
「大佐?」