方舟の夜
ロイだって標準から見たら多分大柄な部類に入る。そうは見えなくともそれなりに肉厚だし、それなりに骨格も太い。けして太っているわけではないはずだが、たくましいかどうかの分類で見れば、恐らくたくましい部類に入るだろう。軍人としてはどうかわからないが…。
ロイは自分のシャツを着替えとして用意しておいた。脱衣籠に入れておいたのだ。なかなかに細やかな気配りであったが、さすがにエドワードのサイズの服など持ち合わせがない。巷で言われているように彼が非常に女にだらしのない男であったのなら、逆に小さいサイズの服なんかが発見できたのかもしれないが、噂は真実と隔たりがあったので、それはなかったらしい。
…つまりエドワードが今身につけているのはロイのシャツだ。
三回くらいまくった袖から落ちる腕は細く、肩の切り返しのラインは二の腕のきっと真ん中あたりで、第二ボタンからは留めているはずの胸元は白く、鎖骨が露になり、何より問題なのは裾が膝近くまで下がっていることで、その下からは足が直で、つまり素足ですとんと伸びていること―――
硬直したロイへ、怪訝そうにエドワードは首を傾げた。
頭を覆ったタオルの両端を幼く握って。
「〜〜〜…っ」
ロイは、…顔というか頭を押さえてとうとう座りこんだ。なんだろうか、このシチュエーションは。なんなんだろうか…、この光景というか状況設定に浮かれてしまわない男がもしも世の中にいるなら、いっそ会ってみたいものなのだが。
「大佐っ?」
慌てるエドワードを、ロイは片手を上げ制した。来るな、と。
「…大佐?」
「…なんで下を履いてないんだ…」
ロイは、しゃがみこんだまま片手で顔を押さえ、ようよう言った。それはもう、苦渋に満ちた、「搾り出す」と言った方がいいような声色だった。
彼の立場を理解する男性であれば、ご愁傷様と慰めてくれるかもしれない。
「…履いても落ちてきちまうんだよっ…、…大佐がでぶだから」
と、むっとした声で返答がある。
…当然予想の付くことではあったが、ご当人には、ロイの苦悩など想いもよらないに違いない。
まあそれはそれとして、別にロイはそこまで太っているわけではない。標準だ。…もしくは標準より若干たくましいという程度。つまり問題はロイのサイズではなくエドワードのサイズにこそあるわけで…。
「ああ…そうか、君には大きすぎたわけだな」
「大きいんじゃなくて、…太いんだよ!」
あまりにも失礼なことを言うので、ロイは思わず顔を上げた。そして、すぐさま後悔することになる。顔を、上げなければよかった。そうすれば見えなかったはずだから。
エドワードは確かに、近づいては来なかった。しかし、しゃがみこんでしまったロイにつられたのか、自分もしゃがみこんでいたのである。…いっそ座ってくれたなら良かったのだ。しゃがみこむということはつまり、座ってはいないわけだから、立てた膝の合間に見えてしまうものがあったりするのだから…。
「………なんなんだ、君は、一体…」
ロイの声はもう、うめく、といった方がいいくらい苦い物になっていた。
「隠すなら徹底的に隠したまえよ…」
「…?」
ロイは、怪訝そうな顔をする子供に、羽織ってきたばかりのシャツを乱暴に投げてよこした。そして重ねて言う。
「…見えるだろう、…そんな格好をして」
「……………、……………」
エドワードはといえば、…やはり怪訝そうな顔をして、一瞬ロイの目を見る。その後でその視線を辿って、…辿って、真っ赤になる。
「…!」
慌てて膝を閉じてぺたんと座りこみ、ロイが放ったシャツを腰まわりに巻きつけながら、真っ赤な顔のまま睨みつけてくる。なんだか、これまた、何かいけない想像をしてしまいそうな、そんな仕種だった。ロイももう、どうしたらよいのやら…。
「…睨まれても困るんだが」
そんな子供に、ロイは溜息混じり、言った。そうなのだ。困っているのはロイも同じなのだ。
見えた光景が、…光景というか…物体というか…それが同性の兆候であったなら特に問題はなかった。「そうでなかったから」問題なのだ。
「……。……まあ、…椅子に座らないか。…あとベルトを持ってくるから、とにかく履いてくれ…下を。頼むから。…嫌だと思うが、下着もつけてくれ…新品だから。とにかく、君の服が乾くまででいいから、我慢してくれ…」
ほとほと疲れ果て、ロイはふらりと立ちあがると、力なく頼みこんだ。そして背を向けて、歩いていく。足を引きずるような雰囲気で。
「………わかった…」
蚊の鳴くような声での返事は、その意外と広い背中に消えていった。
ベルトを手に、ロイはリビングのドアの手前で立ち止まった。おもむろに咳払いをすると、鋼の、と声をかける。
「入っても大丈夫か」
なぜ自分の家でこんな質問をしなければいけないのか、…ロイは一瞬だけそんなことを考えつつ、それでもあくまで紳士的に問いかけた。
すると、室内からはややあって、うん、という小さな返事がある。ロイも調子が狂うのを感じていたが、それはあちらも同じようだ。
当然といえば、当然なのだろうけれど。
「…入るぞ」
一応もう一度断りながら部屋に入ると、やはり裾を何回もまくったズボンを身につけたエドワードがいた。ウェストのあたりを持っているのは、そうしないと落ちるからなのだろう。
…なるほど、確かにかなり余っている。エドワードがふたり…はさすがに入らないだろうが。
「…使いなさい」
ロイはなんとなく渋い顔をしてベルトを差し出した。エドワードもなんだか困った顔をして、それを受け取る。する、と穴にベルトを通していく時、シャツを跳ね上げたせいで見えた白い腹については、ロイは理性を総動員させて視線をそらさなければならなかった。
「…。…何か飲むかね。…といっても、大した物は出せないが」
「……、…いや…、その、…服乾いたら、帰るし。…悪いよ」
何となく気まずい雰囲気のままロイが声をかければ、こちらも普段の調子が出ないらしいエドワードが答える。部屋の入口と奥の窓の手前に立つエドワードの距離もまた、微妙な距離だった。
「いや、嵐の峠は今夜だぞ?これから帰るくらいなら今夜は泊まりなさい」
「とま…」
呆然と目を見開くエドワードの顔を見て、ロイは慌てた。
「い、いや!私はこれから司令部に戻るから、君はひとりで一晩ここに避難―――」
「なんだよそれ、大佐こそ嵐の中帰る気かよ、それくらいならオレが―――」
「いや、私はいいんだ、私は。こう見えても頑丈だし」
「雨の日無能は黙ってろよ。嵐じゃ無能が倍になるだろ」
「君こそ、この暴風雨なんだ、飛ばされてしまうぞ?自分の体格を忘れてないか?」
「誰が風にも飛ばされる豆ツブ…!」
一触即発の空気に満ちてきた、まさにその瞬間だった。
ジリリリリリリリリリリ!
「…ぅわっ…」
横で突然電話が鳴ったもので、エドワードは驚き、思わずよろめいてしまう。それを咄嗟に支えて、…支えてしまってからロイは慌てた。支えた肩がひどく頼りなかったからだ。庇護欲と劣情を微妙に同じ割合でくすぐってくるほどに。
「…っ」
支えられた方もまた、触れられてしまったことに息を飲む。