方舟の夜
「…オレが憶えてんのは、…母さんがオレのことぎゅってして、よかったって、帰ってきてよかった、って…泣いてるのだけ。実際は結構危なかったらしいんだけど、オレは憶えてないんだよね」
まぁろくな記憶じゃないだろうけど―――エドワードは皮肉っぽい顔で苦笑した。
その顔を見る限り、ロイには、本当にエドワードが憶えていないようには思えなかった。確かに全部を憶えているということはないかもしれないが、おぼろげな記憶くらいは、あるいは…。
この子供は強がりだからきっと言わないだろうけれど、…ロイはどこかで、外れたらいいのにと祈りつつも確信していた。この子は、かつて何か恐ろしい目に遭っている。
「ホーエンハイムの娘。…錬金術の才と、…まあ子供の頃の容姿なんて実際にはあてになるもんじゃないと思うけど、髪も目もまあ上等な部類らしいし。…物心付かないうちにさらって後は好きなように―――だってさ」
エドワードは他人事のように語って、肩をすくめた。
「あほらしい。…でも、母さんは、本気でオレのこと心配してた。だから…、オレのこと、男だって育てたんだ。もちろんピナコばっちゃんとかウィンリィはほんとのこと知ってるけどな。…もっとも、オレはとことん乱暴な性質だったし、あんまり女らしくも育たなかったから、別に今じゃ女だって思うヤツのが少ないんだけどな。それに親父もどっか行っちまったし、…ホーエンハイムの名前は昔ほど有名じゃなくなった」
エドワードはそこで息をついて、若干迷うように顔を伏せた。
「…でも、あんたにも、言えなくて。…ごめん、…だますつもりはなかったんだけど」
迷子のような顔をして、エドワードはうつむいてしまった。…この子供は、嘘をつくのがうまくない。それはきっと、性格的に好きではないからなのだとロイは思う。
そんなエドワードだからこそ、ロイに嘘をついていたことを(だがロイとて尋ねたわけではないから、悪質な嘘とは言えないが)明かすのが辛かったのかもしれない。
ロイは、そういう風に考えた。そして、…それとは別のところで、ふつふつと怒りがわいてきてもいた。
そうだ。エドワード自身には、何の非も無いではないか。
「…物心付かないうちに攫って、洗脳か。…下らん輩もいたものだな」
吐き捨てるような言い方に、エドワードが少しだけ顔を上げた。部屋は暗かったが、ロイの表情が、苦虫を噛み潰したようなものであることはわかった。だがなぜ彼が怒るのかがわからず、エドワードは小首を傾げる。
「…大佐…?」
「…母上の判断は、緊急措置だがやむをえまいな。…だが…」
手の届く場所にいるエドワードに、そっと、ロイは指を伸ばした。しかしその指先は、触れる寸前で止められる。幾分迷いを含んでいるように、見受けられた。その黒い深い瞳は、随分と迷いを含んで見えた。
「…かわいそうに」
「……………?」
「…私の感傷だとは、わかっているが…。…君は嘘は得意ではないだろうし、…それに、一番着飾りたい年頃だろう」
エドワードは―――ロイの言葉があまりに意外だったので、目を瞠ったまま呆然としてしまう。
「…君の秘密は口外しないと誓おう。…いつか、君が本当にそれを明かせるようになるまで」
「…いつか…?」
ロイは、おや、というように目を見開いて、ついで、やさしげに目を細めた。それはついぞ見たことの無いような穏やかな表情で、エドワードの胸は、我知らずとくん、と高鳴った。
「まさか一生男として生きていくつもりかい? …いくらなんでも、それはどうかと思うが…」
「…なんで?」
「なんでって…言っただろう、緊急措置、と。ご母堂もそのおつもりだったと思うがね? …つまり、君がしっかりと物事を判断できるようになって、周囲に君を支える人がいれば、そんな無闇に攫われるようなことはないだろう。まして、今の君を、…鋼の錬金術師を、そう易々と誘拐できる人間はいないと思うがな」
エドワードはぽかんとした顔をして、言葉を失っている。まるで考えていなかったことを言われた、という顔だった。
「まあ、君が攫われでもしたら、私が助けに行くことになるだろうけどね」
「…え?」
「当たり前だろう? そうでなかったら誰が君を助けに行くんだ?」
至極当然のことのように話すロイに、エドワードはさらに言葉を失ってしまう。
…ロイがエドワードの後見人だから? だから、「当然」と彼は言うのだろうか。しかし果たして、それは本当に「当然」のことなのだろうか?
だが、エドワードが口に出したのは、もっと単純な感想だった。
「…オレ、…そんなこと、考えたことも無かった…」
呆然とした様子でそう言うエドワードに、ロイは軽く目を瞠って…それから、うっすらと笑った。それはひどくやさしげな表情で、エドワードは、ロイにもそんな顔をする時があるのだ、とそのとき初めて知った。
「どちらをだい? 女として生きることか、それとも、君が攫われたら助けに行くという話の方か?」
エドワードは、この問いに、少し困ったように小首を傾げる。
「…両方、かな」
「そうか」
ロイは、迷っていた指先を、ようやくエドワードの髪に触れさせた。そっと撫でる手つきは、似合わない表現だが、随分と慈しみを感じさせるものだった。
「…まだ何もかもこれからだよ。人生は長い」
「…大佐、なんかじじくさいよ、それ…」
失敬な、とロイはその言葉に反論したが、その目は笑っていた。エドワードはまじまじとそんな黒い目を見つめてしまう。すいこまれてしまうようだ、と感じながら。
「…さて。…だが、…そうとわかっては、…その、なんだな…」
「?」
それまで泰然としていたロイが、そこで初めて困惑したような様子を見せる。エドワードはといえば、不思議に思い首を傾げるのみだ。だがロイは、難しい顔で呟く。
「…どうしたものかな…」
「大佐?」
「…知らなかったとはいえ、君を家に連れてきたのは、少々まずかったかな、と。…今更だが」
「…なんだよ、それ。あんたが無理やり…」
「君の将来に瑕が付くと困る」
予想外の言葉を口にして、ロイは、エドワードを見つめる。エドワードもエドワードで、いきなり考えも及ばないことを言われ、どうしたらいいのかと途方に暮れた。
「…それは…、ちょっと飛躍しすぎなんじゃねぇの…?」
結局、とにかく素朴な疑問をぶつけてみるしか選択肢がなかった。ロイの言うことはわからなくもないが、なんだか一足どころか二足、三足は飛んでいるような気がしたので。
「そんなことはない。昔なら、君くらいの年で結婚して子供がいてもおかしくなかったし、婚約くらいはしていてもよかったんだ。そんな年頃の女性を、そうと知らなかったとはいえ連れてきてしまったんだぞ」
だがロイはまったくエドワードの言葉を意に介さず、真剣な顔をして言った。
「…。大佐って、…なんか意外、大佐からそういうこと言われると」
「なぜだね」
「だって、あんた彼女いっぱいいるって」