方舟の夜
エドワードは困ったようにそう口にする。ロイの女関係が派手だ、というのは、まことしやかに語られる噂である。噂であるから何割かは確かに嘘が混じっているのだろうが、といって、やはり真実も含まれていると思っていたので、…そのロイにこういう古風な貞操観念を語られると何か違和感があった。
しかし、このエドワードの疑問に、ロイは呆れ顔。
「そんな暇あるわけないだろう?そもそも噂の大半は誹謗中傷というやつだよ」
「えぇ…?ほんとかぁ…?」
ロイは肩をすくめ、ぼやく。
「事実無根だよ。それは、食事くらいは行ったかもしれないけどね。残念ながら私にそんな大勢の女性を喜ばせるような甲斐性はないさ」
「…ふーん…」
甲斐性、ねえ…とエドワードは首をひねる。
「そうかなあ。あんたがもてるって、…別に噂聞いても、そうだろうなーってしか思ったこと無かったけど」
思わずといった調子でこぼれたエドワードの言葉に、ロイは意外そうに目を瞠る。
実に意外だった。エドワードの口から出る言葉にしては。
「…ほぅ?」
エドワードはたぶん、それが、自分もロイにある程度以上の魅力があることを認めている、ということを示す言葉になるとは気付いていないようだった。不思議そうに、うん、と頷く。
「だって、あんた、普通にかっこいいだろ」
「……そう、か」
「うん。まあ、ハボック少尉とかと並ぶとちょっとタッパが足りないかもけど、一般人と並んだらそうでもないだろ?それに顔だって普通に整ってる方だろ?おまけにあれじゃん、肩書きもあるし」
エドワードはあっけらかんと言い、腕組みして首を傾げた。だが言われたロイとしては、それどころではない。こんな風にストレートに言われると、さすがに少々驚くではないか。それに、「あの」エドワードの口からこんな言葉が出たとあっては…意外以外の何物でもない。
「だからもてるって聞いても、そうだろなー、って」
「…。なるほど。…じゃあ、参考までに聞かせて欲しいんだが、たとえば君から見てどうなんだろうかね」
「…は?」
「今のは一般論だろう?だったら、それはそれとして、君個人の感想はどうなんだ。たとえば君が、女の子として普通に暮らしていたとして、私がデートを申し込んだらどうする?受けてくれると思うかい」
実は少女だった国家錬金術師は、ごくごく不思議そうな顔をして、何度か瞬きした。そういう素直な、警戒の無い態度は、ロイが初めて見るものだった。さきほどまでは悲壮な雰囲気だったし、普段はもっと生意気な子供だから。屈託の無いように見えるエドワードではあるが、賢い子供らしく、自分を含む大人たちに対してある程度の線を引いているのを、ロイはさすがに気付いていた。
「…うーん…どうだろうなあ」
そして正直な第一声。
「行き先によるかなぁ。オレ、映画とか誘われてもたぶん行かないし」
「へぇ…じゃあ、たとえば、君が行きたいと思う場所なら、受けてくれるわけか」
ロイが何を考えてこんなことを聞いているのかまったくわからなかったが、エドワードは首をひねりつつ、こう答えた。
「そうだな…いいんじゃね?大佐なら、別に一緒にいてもそんなに退屈しないだろうし」
答えを聞くと―――ロイは破願して、手を差し出した。
妙にうきうきとした気分を止められなかった。
「…?なに?」
「…緊急措置、その二の提案だ。鋼の」
「…? …何の話?」
怪訝そうな顔で見上げてくる白い顔をのぞきこむように、ロイは腰を屈めた。少し汗臭いような、男くさいにおいに、エドワードは無意識に肩を強張らせる。だがそれに気付いても、…いやもしかしたら気付いたからこそかもしれないが、ロイは、その小さな肩をやんわりと抱きこんだ。腕の中で息を呑む気配に、ロイは微かに笑う。
「…君が『鋼の』である間は、私が君を守ろう」
「…は…?」
「私は君自身に好意はあるが、君の血筋には興味が無い。君を育んだ環境、という意味においてはないとも言えないがね」
好意がある、とはっきり口にされ、エドワードは呆然とした。自分も大概可愛げのない、生意気な口ばかり聞いているが、ロイだってエドワードをからかってばかりいるのだ。その彼が、好意、と。こんな風にやさしく抱きしめて、そんなことを言うのか。
―――エドワードは、混乱せずにいられなかった。
なんだか胸がざわついて落ち着かない。外の嵐に負けないくらいだ。
「『エドワード』として、…『鋼の』ではない、君の人生を生きられる時がきたら、君は君の好きにしたらいい。…だがそれまでは私が、君の」
「………」
ロイが少しだけ体を離してくれたので、エドワードは顔を上げた。すると、真摯な目つきで覗き込んでくるロイと目が合う。エドワードはそんな目を見たことが無かった。ロイの、という意味でもそうだが、誰からもそんな目で見つめられたことは無かった。
胸のざわつきは違うものに変わっていた。臓腑をぎゅっとつかまれたように、苦しく、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。息苦しさで酸欠を起こしそうなくらい、…緊張していた。
「…たい、さ…」
ロイはなんとも言えない顔で目を細めると、そっと、白くまろい頬に触れてきた。エドワードは悲鳴を上げてしまいたくなった。だがロイは静かに続ける。
「…ロイ、でいい」
「え…」
金色の目がいっぱいに見開かれるのに、ロイは目を細め、いいんだよ、というように頷いた。
「女だと公表する必要は確かにないし、今まで通りにしていたらいい。だが、もしも君が女だとばれてしまったら」
ロイはやさしげに髪を撫でながら、少し離したとはいえ腕の中で固まっている少女に、ゆっくりと言い聞かせる。
「私を、婚約者と」
「…、…はっ…?」
素っ頓狂な声を上げるエドワードに、くすくすとロイは笑う。
「解消するのは君の自由だ。それなら君の経歴にもさほど傷は付くまい?解消する時の理由なら全部私に預けてくれたらいい。君には何の害もないように」
「ちょ、たい、」
「ロイでいいと言った」
「い…くない!」
髪を撫でてくる大きな手は、正直に言えばだいぶ心地よく、それこそ目を閉じて身を預けてしまいたいほどだった。だが、当然そうしてよいはずがなく、エドワードは焦った声を上げて抗議する。
「そんなんあんたになんも!メリットないだろ!」
必死な顔をして言い募るエドワードを、ロイは黙って見つめる。そんなロイの前で、子供―――彼女は、苦しげに眉根を寄せて胸を掴んでいた。
「いいよ、そんなの、しなくていい!オレは今まで通り自分でなんとか―――」
ロイの、男の大きな手が、エドワードの頬に再び触れた。それだけで、びく、と一瞬小さな肩が跳ねてしまう。
可哀相に、とロイはわけもなく思う。
…だが、それを打ち消す感情もまた同時に存在していた。
「それは無理だ」
「なんで…っ」
「今だって私から逃げない君が、男として?それは無理だよ」
ロイは、困ったような顔をして、穏やかに言う。…穏やかを装っているとは、エドワードは思うまいが。そう、穏和に、やさしく聞こえている、見えている、はずだ。相手から自分がどう見えているかなど、既にロイは経験として知っていた。
「え…?」