方舟の夜
その落ち着いた態度に、油断していたといえばそうなのかもしれない。とにかくエドワードは、多少落ち着いたとはいえ、混乱していたのだから。すこしの刺激で揺らぐのは、当然のことだったのかもしれない。
「…っ?!」
ロイは、予測の付かない速さで、エドワードの腰をぎゅっと抱き寄せたのだ。片手で右手首を掴んで。エドワードの自由を瞬時に奪って。
「…エドワード?」
唖然としている獲物の耳朶に唇を寄せ、ロイは囁いた。低い声で、その名を。
「…っ、ゃ…!」
産毛を震わせる感覚に思わずの悲鳴をもらせば、ロイが顔を離して見つめてきた。その顔には、心配するような色が見て取れた。行いとは裏腹にだ。…そういう風に見えたから、エドワードはよりいっそう混乱する。
「…君は無防備だ」
「は…、だ、…なんだよっ、それ!」
目にうっすらと水の幕を張ったエドワードを抱きこみながら、ロイは、溜息混じりに苦笑した。掴んでいた手首を離して、その手で前髪を払ってやる。エドワードが思っていたのよりも、ずっとやさしい手つきだった。
「…私のメリット・デメリットなど、余計なことだ。大体、そんなもの気にしていたら、初めから君に国家錬金術師の道など示さなかったさ」
まだ驚きと興奮で胸が落ち着かないエドワードは、言葉もなく黙ってロイを見た。
「…君を守るのは私にとって当たり前のことだ。…君が私を嫌っていないのなら、これ以上確実な手はないと思うんだが」
その様子が可哀相に思えたか、ロイは、機嫌を取るような情けない表情を浮かべた。
「…どうだろうね?」
ゆっくりと、今度こそエドワードを解放しながら、考えておきなさい、とロイは言う。
「………考えて、って…」
「君がうんと言えば、今から君は私の婚約者だ」
戸惑いに溢れた瞳を見て、ロイは苦笑する。そして、肩をすくめると、くるりとエドワードに背中を向けた。
なんだか見捨てられたような気になって、エドワードは無意識のうちに手を伸ばしてしまう。その、案外広い背中に。捨てないで、と縋るように。
「…シャワーを使ってくるだけだよ。…君も、…私といては、落ち着かないだろう」
背中を向けているはずなのに、気配で気付きでもしたのだろうか。ロイは、まるで、手を伸ばしたエドワードに気付いているかのような様子で、そう言った。
「お茶を淹れておくから、それを飲んで落ち着くんだ。いいね」
ロイに渡された大き目のカップを両手で包むように持ちながら、エドワードは膝を抱えるような格好で、外を見ていた。相変わらずの嵐である。
「……」
曇天は夜になりいよいよ暗く、まだ雷が鳴り続いていた。
本当は、嵐も雷も好きではない。
嵐の夜は、あの夜を思い出すから。あの晩も、そういえば雷が鳴っていた。陳腐な言い方になってしまうが、もし神とか運命とかいうものが本当にあるとして、あれはそういった何かからの最後通牒だったのかもしれないとも思うのだ。これ以上行っては取り返しが付かないぞ、という。
「…なんで、…」
…嵐がひどくなるまえに、地図を買ってこようと外へ出た。本当は、アルフォンスには留められた。明日でいいじゃない、と。しかいエドワードはそれを振り切って本屋へ…、行こうとして、東方司令部へ赴いた。本当に正確な地図は軍部でなければわからない。それを思い出したからだ。
だが改めて考えると、…単に司令部へ行きたかったのではないだろうか、という気持ちにもなってしまう。
そんなはずは、ないのだが…。
(そうだ、…だって、司令部行ったって、そんな、別に)
エドワードは唇をかみ締めながら、困ったように目をさまよわせた。
司令部に行けば誰に会うか。
そんなことは、わかっているのだ。
わかって、それで。それをどこかで期待していた?
「…わかんね…」
エドワードは泣きそうな声で小さく呟いていた。
一方、エドワードをひとり残し、バスルームへ退散したロイだったが…。
「…はぁ…」
彼は今、壁にごんと額をつけて、シャワーを浴び続けている。時折溜息をついて。
「…なんなんだ、…やばい、…たいへん、マズイ…」
壁に向かってロイは呟く。たいへん不審だ。というか、変だ。
―――…っ、ゃ…!
先ほどの、あの切羽詰った声が予期せぬタイミングで耳に蘇る。
(…あれは十五歳で自分が面倒を見ている未成年の才能だけは天井知らずの生意気なちびでつまりどちらかといえば庇護する対象であって)
ロイは心の中、必死に呪文のようにそれを繰り返す。既知の情報を淡々と繰り返すことで、冷静さを取り戻そうとしているのだ。
「…でも、男だと思っていたのが、女の子で」
そんな中、こぼれた肉声に自分で固まる。
…そう。今まで気が付かなかったのがいっそ不思議なくらい、あれは少女だった。成熟には程遠い、しかし、しかしだ…。
タオルを巻いて飛び出してきた時も、シャツ一枚しか羽織っていなかった時も、…しゃがんだせいで局部がまるきり晒されていた時なんかは特に。
あれが誘いで無いならなんとも残酷な、そう思わせるくらいには、あれはやはり女だった。何も知らない、まっさらな少女。そうでなければ、いくら見知った仲とはいえ、もっとロイを拒絶するか警戒するかするだろう。
「…なにが、」
ロイは相変わらず壁に額をつけたまま、自嘲気味に呟いた。
「…なにが、…婚約者、か」
守る、などと。
よくもそんなことが口に出せたものだ、とロイは自分で自分に呆れるしかない。
(…マズイ、な…)
本人は気に入らないらしいが、腕に収まりのよいあのサイズといい、触り心地のよい白い肌といい、勝気なせいで余計目立つ内面の脆さのようなものも、…気付いてしまえばもう欲しくてしようがなかった。自身の欲こそ持て余す。
ロイは目を閉じる。
守ってやりたい気持ちは嘘ではない。だが、それを裏切る者は自分の中にこそ在る。これを何としたらいいのか、ロイにもまるでわからないのだ。
「…ノアになどなれないしな」
エドワードが先ほど口にしていたことを思い出し、ロイは苦笑交じり呟いた。あの子供は、時々ものすごく…非科学的というか、ああいうことを口にすることがある。それはきっと、そのまま生い立ちを語るものだろう。どれだけ慈しまれ育てられてきたか、という。
正しい者に選択を、地上のありとあらゆる生き物からひとつがいずつ方舟に載せて―――
『…この場合、私と君でひとつがい、か?』
笑ってしまう。
あれが随分と願望のにじんだ台詞だったことなど、エドワードはきっと知らないだろう。
(…知らないでいい)
彼は薄目を開け、壁のタイルを見た。そして、ゆっくりと視線を下へ向ける。
「…はぁ、…」
…精神的にもそうだが、肉体的…というか本能的にももうとっくに限界だったらしい。
まっさらなあの子を、…まっさらであるうちに、心を揺らしている今のうちに何とかしてしまえと、獣じみた欲求が体を衝き動かす。
だが、ロイは首を振り、自分でそれを慰めるべく手を伸ばす。
「…君は知らないでいい」
呟き、再び彼は目を閉じた。今度はきつく、眉根を寄せて。