Bijoux
ロイは笑って、昼から酒をたしなめるような身分になりたいものだけどね、と答え、ただの炭酸水を注文した。かしこまりましたと運ばれてきたのは美しく磨き上げられたグラスと緑色の炭酸水の瓶。陽光を透かして、ただの炭酸水はスパークリングワインのように見えた。ロイはそういった洒落た酒に詳しいわけではなかったが、何となくそう感じた。
つぶつぶとわきあがる泡が真昼の光にさらされると、いつだって元気の良い少年のことを思い出す。たかだか炭酸水で思い出せるなんてお手軽もいいところだと思いながらも、ロイは微かに笑った。彼は何をしているのだろうと、また考えてしまったことには苦笑するしかないが、しかし彼のことを考えるとなんとも楽しい気持ちになるのだ。笑みのひとつもこぼれてしまうくらいには。
「…すこし、聞いてもいいかな」
下がろうとする給仕をつかまえて、ロイは質問を口にする。
「はい」
給仕は少し不思議そうだったが、それでもきちんとロイの方を向き直り、質問に答える体勢になる。教育が、表層だけでなく精神にまで及んでいるのだなと思いながら、ロイは続きを口にした。
「エントランスのオルゴール。見事なものだったな。あれはオープンした時からここに?」
レストランに関する質問ではないので流されることも考えたが、給仕はそうしなかった。
「ええ。わたくしどもの支配人がああいったものに興味を…、お客様もお好きなのでございますか」
「いや、私は…」
ロイは曖昧に笑った。別に、好きでも嫌いでもない、というのが正直な感想だ。だがしかし、今それを口にするのは憚られる。
「ここのオーナーは…ブランシュ氏か。…彼はここにも顔を出すのかい?」
給仕は瞬きした後、そうですね…、と少し考えるような顔をした。
「いや、そんなに深刻な質問じゃないんだが」
「いえ…、そうですね。あのオルゴールはディスクオルゴールなのですが…」
ミュージックボックスなどで、大きな筐体の中にディスクを収め、それを演奏させるものがある。スターリーホテルでもそういったものの、かなり大型のものがエントランスに置かれていた。
「中のディスクを定期的に入れ替えているのですが、ディスクの替えはブランシュしか持ちあわせておりません。一月に一度は交換するのですが、その交換作業だけはブランシュが行います」
「なるほど…」
ロイは頷きながら炭酸水を傾けた。
「…ところで、そのメンテナンスの日程はわかるかね?」
「ええ。わかりますよ」
でも何に、と不思議そうな給仕に、いや、ちょっと興味があって、とロイは濁す。
「今すぐには正確にはわかりかねますが…」
でもこれから調べます、といわんばかりの給仕に、ロイは苦笑しながら手を振った。
「いや、わかればと思って聞いただけなんだ。気にしないでほしい」
その一言をきっかけに、給仕への簡単な聞き取りは終わった。
思ったよりも素朴な、だが手を抜いていない料理を平らげた後、確かにこれならうるさ型も満足するだろうと納得しながらロイはホテルを後にした。帰る頃には、ブランシュが一ヶ月に一度オルゴールのメンテナンス及び曲目変更(ディスク交換)に訪れること、次の来訪は三日後であること、などといった情報を入手していた。
エドワードが屋敷へやってきてから一週間が経ち、訪れた日の夜から滾々と眠り続けている彼の目が開かれることはなかった。そして、一週間前、到着翌日の朝に彼が医者に連れて行かれることもなかった。勿論、医者がやってくることもなかった。主人付きだという看護師は「命に別状はない」とだけ述べて、それきりだ。
アルフォンスは兄をつれて逃げようとした。何度も試みた。しかし、結論からいうなら失敗し、それだけでなく兄を人質にとられ、軟禁されていた。自由を封じられたという意味では監禁としてもいいのかもしれないが、アルフォンスが閉じ込められた部屋は薄暗くも汚れてもいなかった。むしろ美しい部屋だったといってもいいくらいだったのだ。しかも、閉じ込められたといっても手足を鎖でつながれているわけでもない。
アルフォンスをここに繋ぎとめているものは、ふたつある。
ひとつは勿論エドワードだ。看護師は言った。特殊な薬を使って眠らせている。命に別状はないし、時がくればきちんと目覚めさせる、と。そんなことにわかに信じられるものではないが、しかし今はそれを信じるしかないのだ。この屋敷を出て医者に見せられない以上は。エドワードを連れ出して山を抜けることも考えたが、まず、堀を渡る橋をどうにかするところで捕まるだろう。
そしてもうひとつの理由。これはちょっと複雑だ。
――アルフォンスは、執事から例の幽霊の話を聞かされていた。工房の先にある霊廟には立ち入らないように、といわれ、やっぱりお墓だったのか、と思わず呟いたら聞きとがめられたので、毒食らわばの気持ちで幽霊としか思えない少女との邂逅を話したのである。すると、執事は答えた。エリーお嬢様です、と。短く。
彼によれば、ブランシュには遅くにもうけたエリーというひとり娘がいた。しかし、彼女とその母親は事故で亡くなってしまった。霊廟は彼女らを弔うためのものだが、時々エリーのような少女を見かける人間がいるのだそうだ。それを理由に辞めていった使用人もいたくらいだという。…単純にこの辺鄙な環境に嫌気が差して、いもしない幽霊を捏造した可能性もあるが、アルフォンスはあの少女とかわした会話が幻だとはどうしても思えなかった。そして、エドワードと似ている、と感じたのもまた間違いだとは思えなかった。もしかしてそのなくなった娘さんは兄に似ていますか、と聞いたアルフォンスに、執事は頷いたものである。一瞬、お嬢様がお帰りになったのかと思いました、と。人形師は腕の確かな人物で、彼の手にかかればかならずエドワード、ひいてはエリーに似た人形が作られるだろう、と言われ、同情する場面ではないのに何となく押しづらくなった。これがもっと悪辣な相手だったらよかったのだ。そうすれば、アルフォンスだっていくらでも強気になれた。
いつでも逃げられる、だから様子を見る。誰にも相談できない状況の中、アルフォンスの判断力は少し狂ってもいたのだろう。だが、今危害が加えられていないこともあり、彼はそんな選択をしてしまった。
かくして、一週間。眠るエドワードと足止めをくらうアルフォンスは、その屋敷に閉じ込められ続けていた。
人形師は細部のデザインを確認する時にはエドワードを訪ねてきていた。そういう時には椅子の上に移されていたが、勿論目を覚ましたりはしなかった。
同じ場に居合わせながら、アルフォンスは尋ねる。いくらなんでも、人形師だっておかしく思っているはずだ。いつ訪ねてきても、声をかけても目を覚まさないエドワードのことを。
だが、答えは予想外のものだった。ある意味では予想通りだったのだが。
「…今回の人形には、今後がかかってるんだ」
職人は苦い声で、しかし確固たる調子でそう答えた。
こちらだって兄の命がかかっている、そういいたかった。だがしかし、そうさせない、何か迫力のようなものがあって、それ以上なんと言ったらいいかわからなくなった。