Bijoux
「ひどいことを言っているのはわかっている。…許して欲しい」
頭を下げる職人を罵ってもよかったのだろう。けれど、それもまた出来なかった。あまりにも調子が狂っていた。そう、調子が狂っていた、というのが正しい。あらゆる物事に対して、アルフォンスのペースはことごとく乱されているのだ。
ディスク交換に訪れるというブランシュ氏に会いに行くか否か、実はロイは悩んでいた。会いに行って何を話す気だ、と、まず自分に対するその問いに、彼は明確な答えを持たなかったので。私が後見する錬金術師が貴方のところでモデルをしているそうで、なんていきなり話しかけるのにはちょっとどうかと思うような話題ではないだろうか。
しかし結局、ロイは会いに行くことを決めた。なぜ、という疑問は自分の中にさえあったのだけれど、それさえも凌駕するものがあったということだ。つまりは、エドワードに向かう気持ちの正体に関わる、重大なこと。
――要するに面白くなかったのだ、初めから。自分以外の誰かがエドワードに特別な興味を向けるということが。
会えなかったらそれまでだ、と思いはしたが、ブランシュ氏がホテルを訪れるというその日の朝に名前を告げた上で氏が来訪する時間を尋ねれば、午前中、大体昼前になるのでは、とのことだった。
中尉には視察と適当な名目を告げて司令部を出た。彼女は何となくもの言いたげではあったが、昨日くらいから未決書類のトレイが常に空になる勢いで書類を裁いていたのが功を奏したのだろう。咎められることはなかった。
軍服のままだと目立つのもあり、コートは脱がずにラウンジで氏を待った。コーヒーを傾けて待つことしばし、タイミングよく、ひとりの車椅子の老人がひっそりとやってきた。さすがに車椅子を押す人物と、オルゴールのディスクが入っているのだろう、大きな荷物を持つ人物がいるようだったが、それでも、ホテルのオーナーにしては地味な登場だった。
「……」
支配人らしき男がフロントから出てきて車椅子の老人を迎えている。老人は幾度か新聞で見たことがある男と同じ顔だったが、思っていたより老け込んではいなかった。家族を亡くして森の奥に引き込んだと聞いていたから、もっとやつれているかとどこかで思い込んでいたのだが。
ブランシュは支配人と何事か話している。昼時の今はほとんどの客のチェックアウトも終わっており、逆にチェックインする客は少ないため、従業員たちにも余裕があるようだった。そして、支配人はロイが来意を告げたことをきちんと記憶していたのだろう。立ち上がり、ブランシュの許へ向かおうとしたのと、当人がロイを振り向いたのはほとんど同時だった。
そのまま、ラウンジの一画でブランシュと向き合うことになったロイは、まずはホテルを褒めた後、聞きたかったことを切り出した。
「私の…身内の錬金術師がそちらにご厄介になっているそうで」
「…大佐のお身内が? 我が家にですか?」
ブランシュは驚いたようだった。直接向き合うと、思っていたよりもやはり若々しい。大体年の頃は六十の半ばを過ぎ、七十近いと聞いているが、もう少し若く見える。
「ええ。鋼の錬金術師と…」
ブランシュはまた瞬きした。そしてその反応に、ロイもまた目を瞠る。…これではまるで、ブランシュは知らないようではないか。
「…ご存知でない?」
ブランシュは困ったように小首をかしげ、残念ながら…と答えた。そして暫しの沈黙が流れる。ロイは思案げに視線をロビーに向ける。
「…オルゴールは、ご趣味で?」
「ええ。老い先短い年寄りの、数少ない楽しみですよ」
目を細める老人の顔は穏やかだった。
「…クリスタルガラスの工房に、何か依頼を出されたことは…」
今度の質問には、おや、という顔で目を瞠られた。どうやらこちらは彼の知る所らしい。
「ええ、ええ。よくご存知で。…年寄りの道楽でしてね、幻の楽器を復活させたくて…」
「幻?」
「ええ。アルモニカと申しましてな、グラス・ハープの仲間なんですが…」
楽しげに語りだした老人に、ロイは瞬きする。
「絶えてもう、百年は経つ楽器で。しかし、これを復活できたらと…」
「それで、ガラス工房に依頼を? 特殊なガラスを使われるのか」
「そういうわけではありませんがね。きれいでしょう、クリスタルガラス」
この単純な反応に、ロイは咄嗟に言葉を探し損ねた。わからないでもないが、資産家の老人が言うことにしてはやや純真すぎるように思って。
「…鋼の、…錬金術師殿は、我が家にいらっしゃると? ご本人が?」
「ええ…、そのクリスタルガラスの工房で、オートマタのモデルの依頼を受けたと…」
思い当たることは二つしかない。エドワードに告げた人間か目の前の老人か、どちらかが嘘をついているということだ。
「……」
ブランシュは不意に考え込むような顔になって、目を伏せた。ロイは何となく黙ってその様子を見ていた。そして幾許かが経って、老人は真面目な顔で声をひそめた。
「…アルモニカは」
「…?」
「天使の声。そう呼ばれていた、と資料が残されています」
「…天使」
ロイはぽかんとした顔で繰り返した。あまりにもなじみのない単語すぎて。そんな単語を恥ずかしげもなく口にするのは自分の親友だけかと思っていたのだが…。
「ええ。…オルゴールにはオートマタを組み込んだ大掛かりなものがあるのですが、ご存知で?」
「はあ…まあ、見たことは…」
さすがにエドワードに言ったように鳩時計を持ち出すわけにも行かず、何となく曖昧に答えたら、ブランシュは頷いて説明を始めた。
「これは私の推測ですよ。大佐」
「…?」
「アルモニカはオルゴールではないが…、グラス・ハープと違って、こすり続ける必要がない。楽器を奏でるときに、オルゴールのようにオートマタを組み込んだものを作ろうとしているのでは…」
「…何のために?」
至極当然の疑問を口にしたら、ブランシュはむしろ不思議そうな顔で首を傾げた。
「そりゃあ、すごいからでしょう」
「…は?」
悲しみに暮れる老人、というロイの先入観はガラガラと音を立て崩れていく。なんだろうか、この老人、全く悲壮ではない。
「すごいと思いませんかな、大佐。天使の声を出す楽器に、天使の人形がついていたら、」
「――――!?」
この発言にロイは盛大に喉を詰まらせてしまった。天使の楽器に天使の人形? しかもモデルがエドワードで? エンジェル?
知識としてしか知らない荘厳な宗教画を思い出し、そこにエドワードを当てはめると、もう笑えばいいのか困惑すればいいのか、ロイにもさっぱりわからない。ロイはエドワードに対して確かに好意を持っているが、別に、天使のようだとかそういうことを思っているわけではないのだ。エドワードは生意気で元気がよくて、時々可愛いところがある…とにかく、元気のよい少年で、それを過剰に美化することはない。
「大佐?」
しかし、そうだろう、という推察を述べただけの老人は特に衝撃はないようで、むせているロイに不思議そうな顔を向けるだけだ。
「いえ、…なんでも」
ブランシュはまだ不思議そうではあったが、気にしないことにしたらしく、話を再開した。