Bijoux
少女は、ふっと消えてしまった。まるで最初から誰もいなかったかのように。
幽霊だ幽霊だ幽霊だよっ! 心の中で繰り返しながら、探検は終了させてアルフォンスは与えられた部屋に急いだ。階段を昇り、客間に向かう。ばたーん、と彼にしてはらしくなく乱暴にドアを開き、そして依然として眠ったままの兄を見つけて一瞬固まる。
「…」
とりあえずドアを閉めて室内へ入る。
エドワードはよく寝ていた。…が、やたらと寝相がよくて若干気持ちが悪い。エドワードといえば布団は蹴飛ばすは枕は投げるは、挙句の果てには自らベッドからダイブしてしまうような腕白すぎる寝相の持ち主なのである。それが今はどうだ。手を組んで、寝返りも打たずにじっと眠っている。まさか死んでるんじゃ、と呼吸を確かめ、そうでないことを知った時には安堵した。
「…随分寝てるなあ」
ベッドに腰を下ろしながら、アルフォンスは呟いた。疲れているのかとも思うが、それにしてもこんなに深くずっと寝ているということはそんなにない。しかも、なぜか妙に寝相がいい。普段は腹を出して豪快に寝ているのに、今日に限っては微動だにせず寝ているから、驚いてしまったのはそのせいもある。
段々と日が翳っていく。エドワードの閉じた瞼では、睫が濃い陰影を作っている。森には夜がやってこようとしている。
おかしい、とアルフォンスが思ったのは、夜中になってもエドワードが目を覚まさなかったときだった。
「兄さん? 兄さん、」
最初は肩を揺すった。腹は減らないだろうかとか、そういった疑問から。けれど全く何の反応も返さず、当然目を開けようともしないエドワードに、感覚のない心が冷えていくような気持ちを抱く。
「兄さん、兄さん? 兄さん!」
どんなに声をかけても動かないので、思わず顔に顔を寄せた。鎧の体にどこで鼓動や呼吸を感じるのかなんてアルフォンスにも説明できないのだけれど、それでも確かに呼吸が、それが続いていることが音として確認できて安堵する。生きてはいるのだ。
「…っ」
アルフォンスはエドワードを抱えあげて部屋を出ようとした。とにかく、医者を呼んでもらわなければと思った。しかし、
「…そろそろお夕食を、と」
今正にアルフォンスが蹴破ろうとしたドアが開き、そこに立っていた執事然とした男は、一瞬驚いたように目を瞠ったものの、それ以外は実に平静な様子でそう口にした。
「…っ、それどころじゃないんですよっ」
アルフォンスは常になく激昂した様子で訴える。目を覚まさないエドワードを抱え込んだまま。
「兄が、目を覚まさないんですっ」
医者でも何でも連れて来い、という迫力でもって彼は迫ったが、そして普通、大抵の人間ならその脅しに抗いきれないものなのだが、相手は違った。
「…それは、…大変ですね」
「ちょっと、そんな暢気に構えてないでくださいよ! 医者はどこですか、病院へ連れて行きます!」
話にならない、と飛び出そうとしたアルフォンスの前に、初老の男は立ち塞がる。
「…どいてください」
「もう、外は暗い。一番近い病院まで行くのにも、明日にした方がいい」
「そんな悠長なことを言ってる場合じゃないんですよ! 息はしてるけど、目を覚まさないんだ!」
「では、今から外に連れて行けば目を覚ますのですか?」
冷静な切り替えしはあまりにも痛いところをついていて、アルフォンスも咄嗟に言い返せなかった。こんな山の中を目を覚まさないエドワードを抱えて出て行ったところで、容態が改善されるとはとても思えない。何時間歩けば医者に会えるかわからないし、気温が下がっていく中をつれて歩いて悪影響がないとも限らない。
「落ち着いてください。当家にも、医者はおりませんが、看護師は常駐しております。そのものに見せましょう。まずはそちらの方を床へ」
「……」
歯軋りしたい思いだったが、アルフォンスには従う他に選択肢がなかった。今の自分では、エドワードの体温を測ることすらできないのだ。それを痛切に思い知らされ、叫びたい気分だった。
エドワードの連絡から一週間が経っていた。その間特にこれといった事件もなく、ロイは比較的穏やかで平和な日々を過ごしていた。やはり事件がなければ処理する書類は減るので、必然的にロイの業務も軽減されるのだ。
旅をしている間はエルリック兄弟から連絡がある方が珍しい。だが、イーストシティ郊外という、行こうと思えば行ける場所にいるのになんら接点がない、というのもそれはそれで寂しいものだった。まして非番の日ともなれば、強くそれを感じてしまう。仕事でもあれば、それにかまけて余計なことは考えないでいられるのだが。
訪れるかどうかはわからないが、もしもまたエドワードが自宅へ寄ってくれることがあったら、と紅茶やら何やらを買い込みながら、ロイは、スターリーホテルの前を通りがかった。例の、エドワードをモデルにと望んだ資産家、ブランシュ氏の経営するホテルである。
「……」
食料品は最後に買おうと思っていて、今手元にあるのは茶葉や食器である。多少かさばってはいるものの、咎められる量ではないだろう。そんなに敷居が高いという話も聞いていないし。
ためしにカフェに入ってみよう、とロイはエントランスへ足を踏み入れた。途端、明るい内装に迎えられ瞬きする。シャンデリアが美しく映りこむ床は磨き上げられた大理石。しかし、細部までこだわりが見える内装は決して人を拒んではおらず、むしろ解放的な印象さえ受ける。一階のレストランを利用しようとそちらへ足を向ければ、実に自然な様子でホテルマンが歩み寄ってきた。
「よろしければご案内いたします」
「…ああ、ありがとう。…食事をしたいんだが、大丈夫かな」
「ありがとうございます」
自然な動作で礼を述べ、スタッフはロイにレストランを示すように半身になった。ロイがそちらに興味を向けていることをさりげなく確認してから、彼は笑みを浮かべた。
「よろしければお荷物をお持ちいたします」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。…よく通りがかるんだが、入ったのは初めてで。きれいなホテルだね」
「ありがとう存じます」
ランチの時間には少し早いようだったが、まだ営業が開始しておらず、などということはけして口にせず、ホテルマンはレストラン内部へ目配せ。すぐにウェイターが気を利かせて機敏に動く。開店はまだのようだが、既にテーブルメイクが済んでいるようだったから、あまり難しいことでもなかったのだろう。
抑え目の色彩は、木材をふんだんに使った内装によるところが大きい。テーブルクロスは白に赤。一輪ずつ飾られた花はテーブルごとに違うようだが、どれもみなぴんと隅々まで美しい花だ。ロイが案内されたテーブルには、見事な紅い薔薇が飾られていた。季節ではないから、どこか温かいところで育てているのだろうか。
適当にランチコースを注文し、まだ他に客のいない店内を見回す。大きくとられた窓からさす光はやわらかい。窓ガラスは鏡のように磨き上げられていた。
「お飲み物はよろしいですか」