Bijoux
窓の下を見やれば、そこには霊廟があった。主人がなくした妻と、娘のための霊廟だ。たまに、令嬢の幽霊を見たというものがあらわれるが、看護師はまだ見たことがない。本当にそんなものがいるのなら、主人のもとにこそ現れてほしいと思う。恐ろしいとは感じなかった。もともと助産師としてブランシュ家に入り、その後看護師として過ごす彼女にとっては、自分が取り上げた娘でもあったから。亡くなったブランシュの妻は体が弱く、助産師の資格を持つ看護師を主は探していたのである。そしてそのまま、令嬢の乳母のようなものも勤めてきた。
「……」
しかし求めても詮無いことだ。首を振り、少年を振り返った時、けれど彼女は信じられない光景を目にした。
「……エリー…?」
依然として眠っている少年の傍ら、少年に似たおもざしの、看護師がよく知る面影の少女が立っていた。幻のように。数年前の、亡くなってしまう前の姿で。
「…エリー、…エリーなの?」
彼女はおぼつかなげな足取りで一歩一歩、少女の幽霊、と思しきものに近づいていく。少女はしかし、看護師を見ず、じっと眠る少年を見ていた。そして首を傾げた後、腰をかがめて少年の耳元に何事かを囁いた。
「……?」
何を言ったのだろう。彼女が、彼に何を告げることがあるだろう。言葉は何も聞こえてこなかったが、何かを話しかけようとしているようにしか見えなかった。
やがて告げ終わったらしい少女は、満足げに頷いて、やっと顔を上げた。そして看護師と目が合うと、何かを囁くように唇を動かし、それからふっと消えてしまった。
「……エリー……」
ふらふらと看護師はベッドに歩み寄る。
「…ぅ、」
どれくらい経ったのか。恐らくはそんなに長い時間が経ったわけではなかっただろうが。
少年が小さなうめき声を上げて、瞼を震わせた。
「…!」
目覚めるのだ、と看護師の体が緊張する。何を言われるか――いや、なんと言って詫びればよいか。
「……あれ……?」
ぱち、と意外なほど綺麗な目覚めを果たした後、少年は不思議そうに呟いた。声が少しかすれているのは、長時間の睡眠ゆえだろう。水を持ってきてやらなければ、白湯がいいだろうか、と思いながらも、看護師はすぐに動けないでいた。
「おれ……」
身を起こそうとするのを察して、看護師は少年の背中に手を差し入れる。
「……?」
ぼんやりした顔で、少年は看護師を見上げた。無心な表情は、なくなってしまった娘をどことなく思い起こさせる。その表情に何の警戒もないせいだ。
「…まずは、スープを。おなかがへっていない?」
宥めるように話しかければ、少年は不思議そうな顔で首をひねり、自分の腹をそっとさすった後、こくりと頷いた。
「…減った」
謝罪するにせよ、説明するにせよ、――改めて依頼するにせよ、総ては食事の後にしよう。看護師はそう結論を出した。
「兄さんっ!」
「わっ」
普段の三倍ほどもゆっくりと時間をかけて食事をしていたエドワードの所に、目覚めたという知らせを受けたアルフォンスが飛び込んでくる。彼は外にいたのだ。
「なんだよ、アル…慌てて」
首を傾げるエドワードはまだぼんやりしていて、何日も自分が眠らされていたことを理解していなかった。随分寝た気がするなあ、という本人の感想だけがある状態である。兄の様子からそれを察した弟は、何から説明しようかとたたらを踏む。しかし、とにかく、エドワードが目覚めて本当に安心した。それこそ膝から力が抜けて倒れてしまいそうだったが、生身ではない今、そういう反応はあまりアルフォンスに起こらない。
「…まあ、いいよ。…おはよう」
「ん。おはよ」
もぐもぐとスープに浸したパンを食べる動作も、普段より随分おっとりしている。やはり、眠り続けたことの弊害だろう。しかし、言動には特に影響らしいものはみられないから、数日もすれば元に戻るだろう。アルフォンスはもう一度安堵のため息をついた。
そして、エドワードが食事を終えた時だった。部屋の外で驚いたような声が上がったと思ったら、兄弟が顔を見合わせている間にドアが開き、車椅子の老人が現れた。アルフォンスは、あ、と声を上げかけたが、老人のまなざしが黙っているようにと制していたので、ぐっと飲み込み様子を見守る。
もっとも、アルフォンスが少しくらい声を上げたくらいで、恐縮して固まる執事や看護師たちに気付かれたかどうかは怪しい所だったが。
「――フレデリック。私に、何か隠し事があるね?」
「………旦那様、私は…」
ぐ、と拳を握りしめ、震える声で言い募ろうとした執事を、老人が遮る。
「お客様をお招きしておきながら、私をのけものにしておくなんて。冷たいじゃないか、フレデリック」
「……旦那様…?」
オートマタのことや何かを総て通り越して、老人、屋敷の主は言った。エドワードはぽかんと瞬きしている。誰だ、とその顔には書いてあった。
少年の表情にかかわらず、ブランシュは目を細めた。やはり、なくした娘にどこか似たおもざしをしていた。もう少し彼が成長したらその面影は消えてしまうかもしれない。今、この年代だからこそのことかもしれなかったが、それを思うと余計に切ないようないとおしさと懐かしさがわいて仕方ない。
「ご挨拶がすっかり遅れて、申し訳ない。鋼の錬金術師殿」
「…へっ」
オレ? と自分を指差して首を傾げた少年に、老人は頷く。
「私はブランシュという、隠居のじじいです。うちのものが、何か不調法をしなかったでしょうかな」
「え…、…いや、別に…」
困ったように首をひねる少年に笑いかけ、主は提案を口にする。
「お詫びと言ってはなんですが、鋼殿。明日、私のホテルでニューイヤーイヴのカウントダウンパーティをするんですがな、ぜひ来ては頂けないでしょうか」
「……え? ……ニューイヤーイヴ…?」
そこでエドワードは愕然とした顔をした。自分がこの屋敷に来たのはもっとずっと前のことだ。一体何日寝ていたらそんな日付になるというのか、と咄嗟に言葉も出ない。
「……うそだろ…だって…」
呆然と呟く少年に、執事が意を決した顔で話しかける。
「…実は、…」
「兄さん、具合悪くて寝込んでたんだよ。覚えてないみたいだけど」
しかし、真相が語られる前にアルフォンスが口を挟んでいた。執事が驚いた顔で鎧の少年を振り向く。だが、その鎧の顔から表情や感情を読み取ることは極めて難しかった。
「え? マジで? 嘘だろ…」
「嘘じゃありません。まったく、人さまのおうちで具合悪くなって寝込むなんて、ボクは弟として恥ずかしいよ、ほんと」
「え…いや、…えぇ? ほんとにかよ、オレ全然…、えええ?」
どうにも信じられない、という怪訝そうな顔でエドワードはしきりと首をひねるのだけれど、自分には記憶がないし、どうも長時間寝ていたと思しき体のだるさは本物だし、加えて誰よりこの場で信頼できるはずの弟がそんなことを言うしで、納得がいかないけれども信じるしかないか、という結論に達する。まあ、確かに仕方ない。
「えーっと…ごめいわくを、おかけしました…」