Bijoux
エドワードは息を吸い込んで、一度目を閉じ、そして再び開く。それからゆっくりと口にした。
「オレ、寝てる間、夢を見てた。目が覚める時も。でも何のことか、さっきまでよくわかってなかったんだ。だけど、わかった。人形を見たら」
「…何の話です?」
ブランシュは当然ながらこのふわふわとした話に首を捻った。だが、少年の目はしっかりした光を宿している。何かあるんだな、とロイは様子を見守る。
「何時間もは、きっともたない。でも、ほんの少しの間だけ、あの人形に魂を」
「…なんですって…?」
ブランシュの顔がさすがに驚いたものになった。エドワードは自分の胸元を手で押さえ、そっと告げる。
「ここに、預かってきた。…あんたの、あんたたちの、大事な…子の魂だよ」
「…鋼の、…何を練成する気だ」
ロイの声もまた低くなっていた。だが、エドワードは動じない。背筋を伸ばして言い放った。
「練成じゃない。これは、仕上げ。泡みたいに消える魔法。ニューイヤーまではもたないよ。…ただの、カラクリにしか見えない。誰にもわからない。じーさんたちにしか」
「しかし、魂とは…」
「どこにも行けなくて、あの家にいた。そういえば、わかる?」
ブランシュが顔を抑えた。幽霊の話は時折耳にする。けれど、ブランシュは見たことがなかった。執事はそんな主人の背中を擦る。エドワードは困ったように首を傾げた後、膝を折ってブランシュを覗き込む。
「…オレも、人形を見るまで忘れてた。…でもあの子はきっとこうなることがわかってたんだ。ただ、今ここでやろうとは思わなかったけど…やっぱり今がいいなって思ったんだ。…見ててくれるか?」
ブランシュは声もなく何度も頷く。
「――大佐。ごめん。…見逃して」
上目遣いにお願いされて、ロイは溜息をつくしかない。まったく、油断ならない。さっきまでは真っ赤になってうろたえていたのに、今はもうこれだ。
「…本当に、一瞬なんだな?」
「うん」
「…誰にもわからないように、するんだな?」
「うん。だって、普通はわからないよ」
「…はあ。…まあ、今夜何が起ころうと、それは余興だ。…それでいいね?」
妥協すべきではないように思いながらも、ロイは結局折れてしまった。エドワードが何をするか純粋に見てみたい気持ちもあった。
「うん。ありがと!」
ぱあっと顔をほころばせた少年に、こんな顔をされてはなあ、とロイが思ったことなど、恐らく彼は知らない。
ラウンジから人形の裏側に回ると、やはりそこには見たこともない楽器があった。演奏しているのはガラス工房の主だ。オルガンほどの大きさのそれは、鍵盤があるあたりにガラスの円盤が連なっていて、その下には盤があってそこには水が張られている。見たこともないものだった。楽器というより、なんだかミシンの大型のものをエドワードは連想した。そして側面にレバーのような、ハンドルのようなものがついていて、どうやらそれを操作することで音を出すらしい。
そしてそちらに回り込んでみて、表から見ると、一段高くなったところに人形がいて、裏側は見えないようになっていたのがわかった。楽器と職人の他に、そこにはアルフォンスもいた。
「兄さん?」
なに? というように首を傾げるアルフォンスに、エドワードはにっと笑った。
「仕上げ」
「え?」
「…楽器の音、すごくきれいだけど。…少しの間だけ、人形に歌わせる」
「…ええ? ちょっと、壊さないでよ…」
「壊さねえよ。おまえ、いつも思うけど兄貴に対して信頼が低すぎる」
「信頼はあるよ。信頼の破壊率」
「…おまえな…」
口元を引きつらせ、エドワードは怒鳴りたいのを必死にこらえた。ここで怒鳴ったらすべて水の泡だ。
「…アル、ちょっと、肩車」
「えええ…? はいはい、わかりました。…って、え、ボクの肩の上に立つの?」
「立たなきゃ届かねえじゃんか」
至極当然、というように胸を張る兄に、はいはい、と結局アルフォンスは折れるしかない。エドワードが言ったら、大体の無茶や無理は通ってしまうのだ。
「じゃあ、…いい?」
とにかく好きなようにさせよう、と諦めにも似た気持ちで、アルフォンスは兄を肩にのせる。
「おう」
エドワードだけが自信に満ちた顔で上を見ていた。つまりは人形の裏側だが、天を真っ直ぐに見る眼差しを、ガラス職人は演奏を続けながら見ていた。
そのまっすぐな眼差しは、工房を訪れた大佐にも通じるもの。錬金術師というのを広く知っているわけではないが、こんな風にひたむきな視線をもつ人間が、職人は好きだった。
今から何を見せてくれるのだろう。正面から見たかった、と少しだけ思いながら、少年がこれから起こすことを、楽しみに彼は待つ。
人形の前の聴衆からは、裏手は見えない。人形はちょうどエドワードと同じくらいの大きさで、ゆったりした衣装や花やら何やらで飾り立てられているため、後ろに小柄なエドワードがいても、よく見なければいるのもわからない。大体、人形と同じサイズで舞台装置のオプションがないわけだから、当然前景の物体より小さくなるのだし。
ぱん、と手を打ち鳴らした音は、どれくらいの人間の耳に届いただろう。
「…プレゼントだよ。エリー」
ましてその音より小さなエドワードの囁きなんて、もっと誰にも聞こえなかったのに違いない。
開いた両の掌が人形の背に触れた。 練成の光はまるで後光のように見えただろう。人がどよめいたように思えたのはそれが理由のはず。そして、起こされるのはほんのひとときの奇跡。
精巧な人形は瞬きをしたけれど、それでもそれは、人間のようなものではない。一度開かれた瞳は、ずっと開かれていた。しかしそれが、本当に生きているような仕種でぱちぱちと瞬いた。そして、可動域をこえて手が上がる。セルロイドのてのひらはそっと胸に添えられ、顔は上を向き、高らかに歌い出す。
天井からのシャンデリアの明かり、屋内のあちこちにかざりつけられたオーナメント、電飾、それらはいよいよあたりを輝かせ、人形をそれこそ天使のようにさえ見せた。
――美しい音色に重なるように、本当の歌声のようなものが聞こえることに、果たして幾人が気付いただろう。いや、気付いたとしても、この雰囲気にのまれて誰もそれに違和感を持たなかったはずだ。少なくとも、何が起こっているかを知るブランシュと、その家で働く人間、そしてロイ以外は。
「…全く」
もはやロイが余興で降らせたガラスの雪など誰が覚えているものか怪しい。しかし、腹は立たない。やってくれる、と思ったが、それは小気味よい敗北感だった。
時計を見ながら、そろそろ自分も出番だろう、ラウンジからそっと出ていく男の足取りは、実に楽しげなものだった。
あれは鋼の錬金術師が起こしたことなんだ、あれが、私の鋼のなんだ、と、誰彼なく言ってまわりたい気持ちだった。どうしたことか、それくらいに彼は浮かれていたのだった。