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黎明録/if

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 前方から着物姿の、一見少女のような幼さを残した容貌の娘が千景へと近づいて来る。
 千景は彼女を見やると、躊躇いなく声をかける。
「…ああ、千鶴。どうしたのだ」
 問われた彼女は、瞳を細めて彼を見上げた。
「どうしたのだ、じゃないです。あなたのためにお酒を買いに行ってたんじゃないですか。切らしたらすぐご機嫌斜めになるのはどこのどちら様ですか?」
 と、手にしていた酒壺を持ち上げてみせる。
「……さぁ、どこの誰なのだ。俺には見当もつかぬな」
 のらりくらりとかわすようにして、からかう笑みを浮かべた千景を、彼女はむうと睨む。
「じゃあ教えてあげます。あなたです、風間さん」
「ほう…初耳だ」
 龍之介は少々呆気にとられた。
 先ほどまでの千景の雰囲気とは、まるで違う。
 どこか気配が丸くなり、薄い表情に楽し気なものを滲ませ、彼女をからかうような、言葉遊びに興じている。そして同時に、彼女がむきになって言い返す様すら愉快そうで。
 先ほどまで彼をとりまいていた鋭い空気が、嘘のように薄まっている。彼女が登場してからだ。
 戸惑う龍之介に気づき、彼女は彼へと視線を移すと微笑んだ。
「……風間さんのお知り合いですか?」
「知り合いというほど何も知らん。まあ、強いて言うなら、野良犬を拾ったようなものだな」
「…の、野良犬?!」
 惚けていた龍之介は聞き捨てならないように聞き返すと、彼女の方が我が事のようにむっとして言い返す。
「なんてこと言うんですか!失礼ですっ」
「嘘は言っていない。…名前は…」
「あ、井吹龍之介だ。よろしくな」
「…だそうだぞ。…ああ、千鶴、こやつを数日屋敷に置いてやるから、そのつもりでいろ」
「え?!あ、そ、そうなんですか?!お布団干してないですよ…、どうしよう」
「気にするな。黴くらいで死にはせぬ。面倒なら土間にでも転がしておけ」
「ま、またそんなぞんざいな言い方して…っ、駄目ですよ?!」
 もう、と唇を尖らせる彼女に、龍之介はひたすら気後れする。いや、ある意味尊敬の眼差しを向けていたかもしれない。
 独特の雰囲気と風格を持つ千景。誰も避けて通る千景に臆することなく話しかけているばかりか、彼の物言いを注意している。この、千鶴と呼ばれた彼女は、話の流れを察するに彼と一緒に暮らしているようだ。ということは、無難に考えて…。
「……もしかして、あんたの嫁さんか?」
 可能性を口にすると、千鶴は目を見開いて固まり、千景はそんな絶句する千鶴を一瞥後、頷く。
「ああ、いずれそうなるか」
 肯定した千景に龍之介は意外すぎるものを見た気がし、かける言葉が見つからなかったが、その間に千鶴は立ち直り、身を乗り出して喚いた。
「ち、違います、違いますっ!!わたしと風間さんはそんな仲じゃありません!!か、勘違いしないでください…っ!!」
 どこか必死さ漂う千鶴は、顔を真っ赤にして否定する。
「…え、違うのか。じゃあ……まさか、イロ…とか…?」
 イロ、つまりは愛人(情婦)の意味である。
 その空気を読まない発言にさらに信じられないとばかりに首まで赤くして、彼女は再び目を見開く。
「…ま、ますます悪くなってるじゃないですか…っ!」
「ああ、そうだな。まだ俺とお前は同衾すら済ませておらぬしな」
「な?!…ど、どうきん……?!」
 にやりとした千景にぎょっとしながら、千鶴は男ふたりを交互に見て羞恥しながら喚いた。
「…ひ、人様の往来するところで何てこと言うですか!あなたたちは!も、もう、お話になりませんっ!わたし先に帰りますからね…!」
 かわいそうなほど赤くなっている千鶴は、あたふたしながら彼らに背を向け転がるように駆けて行った。
 それをやはり楽し気に見送る千景が、ぽつりと言った。
「飽きぬだろう?」
「はぁ?…あ、いや、それより、なんか、悪いことしたな…」
 まあ、彼女が千景の愛人とは思いづらい。なにより、彼女は見るからにおぼこ娘で、その手の女たちが持つたおやかさや婀娜っぽいに欠けている…。
 だが、色っぽい関係ではなくとも、千景自身は動揺してむきになる彼女とのやりとりが楽し気であった。悪趣味にも思うが、こういった男の趣向は龍之介のような凡人にはわからぬものである。
 去った彼女の背を見つめ、千景は歩み出しながら龍之介に言った。
「…あれがはじめの”拾い物”だ」
 …と。
 拾い物、と言いながらもわずかに甘い響きを宿しているように思い、その声音は龍之介の耳に残った。


 彼らが間借りしているという屋敷に着くと、千景の他に天霧という、やはり独特の雰囲気を持つ男と顔を合わせた。彼の口調や態度は丁寧ではあるものの、一線を置き、必要以上に関わって来ない。天霧は千鶴のことを『姫』と呼んでいるため、不思議に思ったが、それについて尋ねることはしなかった。
 彼女は何らかの理由で千景に拾われたらしいが、天霧が随分と千鶴を大切にしているところをみるにつけ、特別な立場にいるように思える。千景の妻ではないらしいが、家の中のことをあれこれ取り仕切り、文句を言いながらも彼にかいがいしく(?)尽くしている様はすでに立派な奥方である。
 ただで厄介になるわけにはいかないと、彼女が苦手そうな力仕事や買い物の荷物持ちは龍之介が進んで手伝うようにしていた。しかし、千鶴は龍之介の腕を気にして遠慮をするのだが、「そういうのはかえって傷つく」と告げると、それ以降、彼女も遠慮することをやめたようだった。
 そして、お互いなんとなく、そうなのではないだろうかと感じながらも言えずにいる。
 千景に拾われた、その理由を。
 共通の目的であるように感じながら、口に出せずにいる。千景も千鶴に「こやつも一緒に連れて行くことになった」とだけ告げたので、明確な理由を知らないままだったが彼女は尋ねては来ない。
 千鶴はひとりになると、酷く思い詰めた顔を見せる時がある。何を考え、思い、そうしているのか、龍之介にはわかるような気がした。きっと、龍之介と同じ苦悩を抱いているに違いないから。
 彼女はおそらく、龍之介と似た者同士なのだ。
 千鶴の姿に自身を重ねると、ようやく千景が龍之介を拾った理由を悟る。
 ……ああそうか、だから、俺は拾われたのか。
 彼女と同じ表情を浮かべる彼を放っておけなかったのだろう。しかし、狭量ではないとはいえ、ただそれだけを理由に、龍之介を拾うほど甘い男ではないと思う。だとしたら、利益にならぬことを承知で、甘んじて受け入れるほど……風間千景は千鶴に対して特別な思いのようなものを傾けているのではないだろうか。そして、おそらく、新選組へも同様に。
 すべて勝手な想像だったが、そう考えると龍之介の中で腑に落ちるのだ。
 そうして、納得をしてしまうと彼は心の中でさえも、余計な詮索をすることをやめた。
 今はただ、感謝すべきだろう。なんらかの、目には見えない縁の力が働き、彼らと巡り会ったことに。







 旅立ちの朝、龍之介が支度を整え居間へ行くと、千景と千鶴は相も変わらず不毛な言い合いをしていた。
 しかし、それはある意味納得できることだった。
 今朝の千景の装いは、おかしいほど華美だったので。
作品名:黎明録/if 作家名:なこ