黎明録/if
「な、なんですか?!そのものすごく派手なお洋服は…!」
「なに、俺ほど白が似合う男もおるまい…」
「似合うとか、似合わないとかの問題じゃありません!派手すぎて世間様がびっくりします!」
彼女が言うように、普段の千景の洋装とは異なり、それを上回る影響と印象だった。
ほぼ白で統一された軍装。黒く立派なテンの襟巻きは豪奢すぎて、物取りに合いそうである。
千鶴も同じことを思ったのだろう、「物取りに合いそうで危険です」と眉を顰める。そしてどうしてそういう流れになったのか、「欲しいのか」と言うなり、千景は千鶴の首にその襟巻きを巻き付けてしまう。
傍らの天霧は我関せずを決め込んでいるのか、口出しをせず視線を明後日の方へ向けている。
…まあ、わからないではないよな。仲が悪いようで、これって俺から見ても、単にジャレてるだけにしか思えないからな…。
数日滞在しただけだというのに、千景の印象はどんどん違ったものになっていた。
彼はどこかの里の首長なのだそうだが、まあたしかにその器量は充分にありそうではあるものの、千鶴と接している時はそういった威厳は薄まる。彼女はそれに気づいていないようだったが、だが、それがいいのだろう、千景曰く「飽きない」のならば。
「も、もう!とにかく、いつものお洋服に着替えてください!目立ちすぎて落ち着けません!」
「駄目か」
「駄目です!」
「どうしてもか」
「どうしても、です!!」
垨があかないと気づいた彼女は、一切の意見を聞く耳を持たないように言いきる。
わずかににらみ合って(?)いたふたりだったが、彼は嘆息混じりに「美を介さぬ奥を持つと苦労する」などと呟き、おとなしく居間を出て着替えに行った。「奥じゃありませんっ」と悪態をつきながらも、残された彼女はほっとしたのも束の間、首に残った襟巻きに気づき、返しそびれてあたふたしていたのだが。…一体、何のためにあんな華美なものを身につけたのか…。理解に苦しむ。
それにしても、ここまで彼に意見する女がいること自体が不思議だった。拾われておきながら、千景へ生活面の注意(酒量)は容赦ない。千景も千鶴の言い分をそれなりに聞き入れ、従っている。
これで、なんでもないのだと言う千鶴は、おそらくかなり鈍感なのだろう。千景は好意のようなものを彼女に向けているように思うのだが、当の彼女へはまるで響いていない。鈍感な千鶴を楽しむゆとりが千景にはあるようだが…しかし、なかなか骨が折れそうである。彼女を落とすのは。
出発に際して、千鶴は洋装、しかも少年のものを纏っていた。
線が細く小柄なので、目の冴えている者ならば、すぐに彼女が『女』であることを察するだろうが、表向きは千景の小性、ということになっているようで時折出会う官軍も警戒する気配はない。それに、千鶴は男装慣れしているようだった。そこにも深い事情があるのかもしれないが。
山ひとつ越えた港へ向かう間、あることに遭遇した。野犬の群れだ。
千景と天霧は特に動じることもなく「またか」とばかりに辟易していた。千景は千鶴を背中で庇うようにして立ち、千鶴も心得ているのか彼の背後で息を潜めてじっとしている。
野犬は戦で転がる死肉を漁ることが多いが、もちろん、生きた人間も襲う。龍之介自身、野犬とは何度か遭遇してきたが、その度、脱兎の如く駆け出し、彼なりの思案を巡らせなんとか逃げ延びて来た。野犬に遭遇したら知恵を絞って即逃げる…それが龍之介の常識であったから、彼らも同じだと疑いもせず無意識に逃げるため構えた。が、違っていた。
野犬の群れの前に立つ千景に、一切焦る気配はない。それどころか。
「……身の程知らずめが」
不機嫌な呟きとともに、彼を取り巻く空気が一変し、凍る。それが目にまで見えるかのように、大気を震わせ、びりびりと耳に、肌に痛い殺気を纏わせる。
全身の毛穴から汗が吹き出す感覚。まるで千景に心臓を握られているような、息も出来ない本能の恐怖。
人間以上に鋭い感覚を持つ野犬たちにとって彼の存在は脅威でしかなく、手向かってはならない圧倒的な相手を前にしていたことを悟り、腰を抜かさんばかりに怯え、キャンキャンと情けない声を上げて逃げてゆく。獰猛なはずの野犬…まさに、形無し。
千鶴はこれにも慣れているのか、野犬が去ってすぐ、ほっとした表情を見せた。
その横で、背中に汗を感じつつ、龍之介は今更ながら、千景のおそろしさを知る。
あの殺気を向けられ、本気で斬り掛かられては、よほどか腕が立つ者でないかぎり一撃で殺されてしまうだろう。彼とやり合えるのは、新選組の中でも面子は限られそうだ…。
「……凄いな…あんたの旦那」
怖れながらも感心し、小声で告げると、彼女はぎょっとした目を向けた。
「だ、旦那様じゃありませんっ」
「んまあ、でも、いずれそうなるんだろ?」
「な、なりません。なるわけないですっ!勘違いです、井吹さん!」
「………」
なるほど。
こうまで簡単にむきになったら、そりゃ楽しいだろうな…風間もからかい甲斐があって。
何か納得する思いでいると、千景に冷ややかに睨まれる。
千鶴は彼から背をむけている状態のため、わからないだろうが(薄らとまだ彼に殺気は残っているのだが)、無言で、『所有権』を主張する眼差しに、龍之介は肩をすくめた。
いかなる男も手出し無用というわけだ。これは、彼女もなかなかに苦労するかもしれない。なぜなら、千景以外の伴侶を持つ事は、この先叶わないように思われたので。
蝦夷行きの船の中、千鶴は終始不安気であったものの、函館にたどり着くと、すぐに五稜郭へ向かった。
新選組の足跡を辿り、斬首刑となった近藤や、命を散らしていった新選組のこと、そしてもはやここにはいない土方のことを考えながら龍之介は存外冷静な自分でいた。こみ上げるものを感じる前に、千鶴が泣き崩れてしまったからだ。
…やはり、彼女もまた新選組と関わる者だったのだ。弔いは、彼女のそれだけで充分のように思う。男の涙など、不要だ。
龍之介は、ここで別の軌跡を辿ることに決めて、彼らに礼を言って、別れた。そのため、千景と千鶴がその後どうなったのかは知らない。
そうして足取りを辿るうちに、時は流れ、蝦夷は冬はその気配をひそめはじめた。
もうこれ以上、新選組の軌跡を追い続ける必要を感じなくなった龍之介は江戸に戻ることを決める。ようやく、ふんぎりがついた。今日の船で江戸へ発つ。
「…なぁ、芹沢さん。俺は、壬生浪士組が産声をあげる瞬間と、戦いに戦い抜いて…ようやく訪れた終焉の瞬間に立ち会ったんだよな…」
これから、どうやって生きていくのか、まだはっきりとした目標は定められないが、惑っていただけの日々は終わり、一歩を踏み出せそうだった。
そして、新選組と、芹沢とも、ここでお別れだ。
「…さよなら、芹沢さん」
あの世で、またあの人に会えるのかな…。
そんなことを思い、わずかに笑みを浮かべて龍之介は旅立ち、蝦夷を振り返らなかった。
久々に、清々しい思いで空を見上げて。
※
幾日かの航海を終え、江戸に着いた龍之介は、まさかそこで再び千鶴と再会しようとは露程も思わなかった。