黎明録/if
江戸から平間のいる水戸へ一旦戻るつもりでいた彼は、とりあえず久々の丘での食事を楽しみにして、江戸の町中で歩いていたときに、往来する人間たちの中で千鶴を見つけたのだ。
千鶴も龍之介に気づいた時、信じられないとばかりに目を見張り、金縛りにあったように立ちすくんでいた。が、それは一時で、すぐに花がほころぶような笑みを浮かべて、龍之介に駆け寄ってきた。
「井吹さん?!井吹さんですか?!」
「ああ、他の誰に見えてんだ?」
苦笑いを浮かべて答えると千鶴は「あ、確かに」と口を押さえた。少々ぼけているのは、変わらないらしい。
「…でも、またお会いできるなんて思いませんでした。あの後、井吹さん、ひとりでどこかへ行ってしまわれて…」
「ああ…俺なりに思うところがあって、ずっと蝦夷にいたんだ。さっき、蝦夷から江戸に戻ったところで」
「あ、ああ、そうなんですね!」
龍之介の旅装束や荷物を眺めてみて、千鶴は納得したように頷いた。
「…しかし、俺もあんたとまた会えるとは思わなかったよ」
感慨深く呟く。
江戸の人口から鑑みて、彼女と出会う確率は限りなく低いだろう。その中で、こうして再びまみえることになったのは、ほとんど偶然という奇跡だ。
「…それで、あんたは今何してるんだ?」
問いかけると、千鶴は手にしていた道具箱を見せる。
「お医者様です」
「は?医者?あんたが?!」
驚いて絶句すると、彼女はむっとした表情を見せた。
「…そ、そんなに驚かなくても。わたしの父は医者だったので、幼い頃からお手伝いはしてきました。…まあ、まだ見習い程度の腕であることは認めますけど…」
最後は複雑そうに呟いた。
彼らと別れて、数ヶ月が過ぎている。彼女が新しい道を歩き出したことに不思議はないし、むしろ、喜ばしいことだろうと思った。が、しかし。
「…ひとりで江戸暮らししてるのか?風間はどうしたんだ?てっきり、あんたをかっさらっていくのかと思ってたけどさ、俺は」
疑問をそのまま口にすると、千鶴はうっと口ごもり、そして次第に顔を赤くし目をそらす。
「……なんで、黙るんだよ?不都合でもあるのか?」
さらに問いかけると、彼女は気まずそうにしながらも、周囲を見渡し、「こ、こっちへ…」と龍之介を小径に引っ張る。
「…おい、どうしたんだ…?」
戸惑う彼に、千鶴は何度か深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「……いるんです…わたしの家に…」
「………いるって、何が?」
要領を得ず聞き返す龍之介に、千鶴は耳まで赤くして続けた。
「だ、だから!…千景さんが、わたしの家にいるんです!」
「へぇ、そうか」
「へぇそうか、って!…お、驚かないんですか?!」
あっさりすぎる龍之介の反応に、千鶴は戸惑いの声を上げるも、彼は苦笑いを浮かべただけ。
「……驚いて欲しいなら驚いてもやるけど…まあ、それほど不思議はないぜ?………って、あれ?まさかと思うけど、あいつが婿養子になったのか?」
彼女は千景を「風間さん」と呼んでいたが、今は「千景さん」に変わっている。ふたりの仲はどうやら進展したらしいが、しかし、あの男が婿養子におさまるような殊勝さはないように思うのだが。なんと言っても全然似合わない。なったとしても、髪結いの亭主、になりかねないような…。
疑問を感じている龍之介に、千鶴がぎょっとする。
「ち、違います!婿養子さんじゃありませんっ!相変わらず井吹さんは早とちりなんですね?!」
「………」
あんたのぼけぶりよりはマシだと思うがな…。
口には出さず目を細める龍之介は、千鶴の言い訳(?)をこの後しばらく聞くことになった。
ふたりは五稜郭で一旦別れ、しかしその間際、どうやら千景は彼女に求婚したらしく(今更のように思えたが)、しかし彼女の心の整理がつくまではと猶予を設け、その五ヶ月後、彼女を迎えに江戸へやってきて、そのまま居座っているという。
「……つまり、同棲してるってわけだな」
結論を口にし、納得をすると、千鶴はまたもぎょっとする。
「ど、同棲なんて言わないでくださいっ!それでなくても、ご近所さんたちに”若夫婦”なんて噂されてるのに…っ」
「変に男を連れ込む女って札がつくより、その方が全然いいと思うぜ?風間が傍にいるなら、あんたに不埒なことしようって男も出てこねぇだろうし」
「?!…う、そ、そういわれてしまうと…」
反論できない…。
千鶴は困って押し黙る。
龍之介はそんな千鶴を見下ろしながら、息をついた。
「……あんたさ、風間のことが嫌いなのか?」
問われて彼女ははっと顔を上げた。その表情から読み取れるのは、複雑な葛藤のように思う。
「……嫌いじゃないなら、応えてやってもいいんじゃないのか。まあ、俺はあんたと風間の間に何があったのかなんて知らないから簡単に言っちまうけど、あんたたちは似合いの夫婦になると思うぜ?ちょっと傍にいた俺がそう感じるんだから、あながち、的外れだとは思わねぇよ」
「………。嫌いじゃないです、嫌いなら、一緒になんていません…」
千鶴は戸惑いながら、本音を口にした。
「だろ?」
「…でも、その…まだ、す、好きともはっきり思えなくて。わたし自身、どうしていいのかわからない部分があって…」
「……そうか。…ああ…、だから風間はあんたが本当に傾くのを待ってるんだな」
「…え?」
「あんたが、嫁になってもいいって思えるまで、待ってやってるってことだろ。風間は強引に見えるけど、案外辛抱強いのかもな。あんたはまだ、自分のことだけで精一杯かもしれない。けど、風間はそんなあんたを待つだけの懐を持ってる男なんじゃねぇのか。はっきりいって、いないぜ…そうまでしてくれるような気遣いの出来る野郎なんて」
彼の性格的問題はともかくとして。
龍之介は苦笑いを浮かべた。
「あんたもわかるだろうけど、待つってのは、結構忍耐力がいるんだ。それも甘んじて受け入れる風間は、そんだけあんたの意思を尊重してるってことだろ」
「……井吹さん…」
千鶴は瞬きを繰り返して見返してくる。龍之介に、まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。戸惑ってはいるものの、しかし、先ほどよりは前向きな表情を見せた。
「……駄目ですね」
「は?何が?」
「千景さんとちゃんと向き合っているようで、深いところでは、まだ彼の妻になることから目をそむけていて…」
睫毛を伏せた彼女に、龍之介はあえてお互いに避け、黙っていたことを口にする。
「…なぁ、あんたも、新選組に深く関わったひとりなんだろ?」
「え…」
不意すぎる問いかけではあったが、彼女にはそれだけで通じるように思った。
「…もう気づいてると思うけど、俺も、あんたとは時間こそ違っても、やつらと関わってたんだ。はじめは嫌だ嫌だと思ってたのに、いつの間にか、居心地がよくなってた。…あんたも、そうじゃなかったのか?」
「………井吹さん…」
「けどさ、もういいんじゃないか。あんたの中で、やつらを解放してやってもいいんじゃないのか。忘れろとはいわねぇよ。俺もきっと忘れられない。けどさ、俺も、あんたも生きてる。生きてる人間は、一歩を踏み出さないと駄目だ。そうじゃないと、あいつらの方でそっぽを向いちまうぜ」