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白 昼 夢(※同人誌「春の湊」より)

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(わたしが、この気持ちを育てることを諦める前に、もし、風間さんが逢いに来てくれたのなら……わたしは、きっと………)
 その先を考えることは出来なかった。微睡みが千鶴を支配しはじめる。
 いつの間にか凍える身体から震えは消え、淡い幸せのようなものを胸に抱えながら、千鶴は眠りに落ちていた。
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 朝がやってくれば、夜抱いた寂しさは消え失せ、彼女をいつもの自分に変える。
 世の中がずっと夜ならば、人は心が萎れ、生きていけないだろうとそんな時はよく思う。
 年の瀬を迎え、今年最後の往診を終えて診療所に戻り、門の周囲を掃除し息をつく。
 もし、綱道を探すために京へ旅立たねば、今の千鶴は、違う千鶴になっていただろうと思う。自らの出生を何も知らず、すすめられるまま縁談を受けて、どこかの嫁にでもなっていたのではないだろうか。年頃になった千鶴が独り身なのを心配して、近所の世話好きたちが彼女に次々と縁談を持ち込むが、その気にはなれなかった。
 平凡な、ただの、誰かの『妻』になることがきっと女としては楽な生き方だろうと思う。
 けれど、楽な方へ流れることは、彼女の思い出と人生経験が許さなかった。もう、千鶴は意思のない子供ではないのだ。
 掃除道具を片付け、少し伸びをして息をつく。
「…お買い物は済ませたし、新年を迎える準備は一応整ったわね…」
 ひとりで過ごす正月ははじめてのこと。しかし一人暮らしで親戚もないのだから、普段の生活と何ら変わらず、面白みに欠け、味気ないように思えた。
 ならば、誰が傍にいたら面白いと思うのだろう。
 ふと考えると、あってはならない可能性が浮かぶ。千景の顔がよぎったのだ。
(……だ、だめだめ…どう考えても『楽しい』ことにはなりそうにないわ。どうせわたしが一方的にからかわれて、遊ばれるのよ。そうして怒るわたしを楽しんで見ているようなひとだもの、楽しいのはあのひとだけで、わたし自身が楽しいわけがないじゃない…!)
 ぶんぶんと首を横に振る。
 彼を思い返してしまうのは、きっと昨晩の所為なのだ。心細くなって、千景を思い出してしまったからに違いない。
 彼のことは。諦めた方がいいと思う。でも、諦めていいのかとも思う。
(わたしのことが気に入ったなんて言ってはいたけど、もしかしたら、”あれ”もただわたしをからかっただけかもしれないわ。いじわるな、ひとだから…)
 再びそっと指で唇を触れた。
 彼との直接的な触れ合いは、あれがはじめてだった。もう、あれから五ヶ月も過ぎている。いや、やっと五ヶ月が過ぎた。
 彼からの連絡は、ない。
(…何よ…風間さん…、俺のところへ来いなんて言っておいて、居場所がわからないんじゃ…意味がないじゃない…。変なところで抜けてるんだもの…)
 思慕のような気持ちから、急に憤りを覚え、荒く息を漏らすと勢いよく振り返る。
 と、千鶴は目を見張った。
 まったく背後に気配など感じていなかったはずなのだが、千鶴の手の届くところに、白い着物を纏った千景が立って、もの言わずこちらを見下ろしているのだ。
 思わずまじまじと見つめ、息を漏らすと背中を向ける。
(…これは、もう重傷だわ。よりにもよって、白昼夢だなんて。逢いたいだなんて思ったりしたから、風間さんの幻なんか見たりするのよ。…っていうか、そんなにわたし、風間さんに逢いたいと思ってたの…?)
 額に手をあてて、気のせいだと言い聞かせる。
 きっともう消えているだろう。
 再び振り返ると、やはりそこにいる。少々、怪訝な表情を浮かべ。
(…ああ、もう本当に重傷みたい。どうしよう…?)
 千鶴は苦い気持ちになりながら、しかし、この千景、とても現実的な肉体を幻は与えている。
(もしかしたら、今は夜で、まだ夢の中とか……)
 夢の中なら、怒られても平気……そう思いながら、手を伸ばして、千景の頬を突ついてみた。と、すぐにでも彼は不機嫌な顔を見せる。
「………まさかとは思うが、これが江戸で流行の挨拶なのか」
 抑揚なく告げる彼の声音に、確実な息づかいを感じて、千鶴は突ついた指を引っ込める。同時にぎょっと身を引く。
「………?!」
(ま、まさか…ほ、本物…?!)
「迎えに来たぞ」
「は?」
 都合のよい幻だと思っていた千景は、千鶴の驚きなど無視して重苦しく呟く。
「……俺は待った」
「…え?」
「充分待った。……気持ちの整理がついたら、俺のところへ来いと言ったはずだ。それを五ヶ月も俺を待たせるとは…お前はどういうつもりなのだ」
 久しぶりの静かな尊大口調に、苛立ちを含ませて、じろりと千鶴は睨まれる。
 瞬きを繰り返して、幻ではなく、本物の千景が千鶴の前に現れたのだと理解するまで少し時間がかかったが、しかし、彼の一方的な言葉を前に、意識せず口は勝手に動いていた。
「……な?!か、風間さんこそ、わたしの唇を奪って、言いたいこと言って去って行ったじゃないですか!あの後、わたしがどれだけ頭を悩ませたと思ってるんですか?!文句言おうにも居場所なんてわからないし…!」
 おそらく、千姫にたずねればおおよその場所くらいは掴めただろうとは思う。けれど、不安だった。からかわれただけならば、本気にした自分が馬鹿を見る。傷つくことを怖れ、このまま思い出として留めた方がよいのではないかと思い続け、葛藤をした。
(…ああ、違う。もっと、違うことが言いたかったはず。わたしが言いたかったことは、こんなことじゃなくて……)
 それなのに、何も浮かんで来ない。まったく言葉にならない。
 心臓がおそろしいほど高鳴っている。理由もわからず身体も小刻みに震える。
 どうしたらいいのかわからない。ただ、逢いに来てくれたことを…嬉しいと思っているのに。
 千鶴の躊躇いを見抜いているかのように、千景は不敵に笑った。
「………それほど寂しかったか」
「…?!そ、そういうわけじゃ……」
 はっと千景を見上げた瞬間、距離は縮まる。「あ」と思った時にはぐいっと腰を引き寄せられ、頭の後ろにも手が回った。
「…か、風間さん…っ…」
 緋色の瞳が眼前に迫る。
「素直ではないのは以前のままか。だが、目は口ほどに物を言うぞ…千鶴」
 形のよい唇が笑みを象り、囁くように吹きかける。
 反論しようとした口は、すぐさま彼の唇で塞がった。
「………ん……」
 近すぎる距離が千鶴の頬を染めさせ、さらに身を震わせる。彼のぬくもりと重なる唇との熱で、千鶴は目眩を覚える。
 抵抗をしたいのに、抗えない。またも意思を無視した口づけだというのに、千景のなすがままになっている。奪われているのに、酷く甘く、意識までも絡み取られていくようだった。
 やるせなく瞳を揺らし、千景が離してくれるまでそうしていた。
 ようやく解放されて、ふらつきながら、千鶴は千景の袖を握り込み、ねめつける。
「………またわたしの気持ちを無視して…」
「俺を待たせたお前が悪い」
「ま、また全部わたしの所為にして…っ」
 顔を真っ赤にしたままさらに睨むも、ふと、ここが屋外であったことに気づき、千鶴は慌てて千景から離れる。
「…外でなんてことするんですか…っ!ご近所の人にでも見られたら…」