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梔 子(※同人誌「春の湊」より)

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 息をするのも、胸の内も。
 嫌だとは、思っていない。けれど、こんな刺激を与えられてはたまらない。
 千景の体温と腕の力の強さにくらくらしながら、千鶴は懇願をした。
「……お願い、ですから…」
 そこでようやく、わずかに解放をされるも、彼の腕は千鶴の身体に回ったままだ。
 呼吸が楽になり、千鶴は瞳を閉じて一気に脱力する。
「……はじめから大人しく委ねればよいものを…」
「………そんなに簡単には、出来ません…。こういうのは、はじめて、なんですから…」
「なればこそ、素直に従うべきなのだ」
「……もう…本当に風間さんは勝手ですね…」
 悪態をつくように軽く千景の胸を叩くと、千景から笑みが漏れた。
「お前が強情なのだから、このくらいで丁度よい」
「…………もう、自分を否定しないんだから…」
 その揺るぎなさをある意味羨ましいと思いながら、薄らと瞳を開けて、千鶴は問いかけた。
「……風間さん…さっき言ってた、わたしの香気って…なんですか…?」
「ああ…それか…」
 千景は千鶴の髪を指先で弄びながら、呟く。
「…女鬼には、特にお前のように血の濃い女鬼は、それぞれ芳香を放っていると、以前話したことがあっただろう」
「……?…はい。でも…わたしは全然わかりません」
「それはそうだ。女鬼の芳香は、男鬼しか感じ取れぬものだからな」
「…もしかして……それって…、わたしが臭いってことですか…?」
 複雑な気持ちで問いかけると、千景の指が一瞬止まり、そして身体が揺れた。…笑いを、かみ殺しているように。
「……か、風間さん…?!」
「…臭い女を抱き込んでいるわけがなかろう。…妙なことを…」
 可笑しそうに声を上げずに笑う彼に、千鶴はなんだかむっとする。
「…そ、そんなにおもしろがらなくてもいいじゃないですか…っ」
 無知と言われているようで腹立たしい。
 そんな千鶴をなだめるように千景は髪を撫でた。
「…芳香とはいえども、鼻で感じるものではない。どちらかといえば、感覚的なものだ」
「…感覚…?……でも、どんな匂いなんですか…?」
 自分自身で感じ取れないため、千鶴にはよくわからない。それに、それがどんなものなのか、誰からも教えられることがなかった。
「………こればかりは、感じ方や印象は男鬼それぞれで異なるものなのだ。一概に、これとは言えぬが……」
 思案するように、言葉を途切らせ、そして彼は感覚を言葉にした。
「…俺がお前に感じる香気は、くちなしに似ている。くちなしの花の香りに…」
 呟きながら、千景は千鶴の頭を引き寄せ、そっと抱え、囁く。
「………俺も、男鬼だと実感させられるぞ。むせ返るようにあったお前の香気を半年近く感じなくなると物足りなくなる。お前を欲しいと思うまではただの芳香にすぎなかったものを…今では俺を捕えて離さぬのだからな…」
 どこか自嘲気味な千景の言葉に、千鶴はおさまりかけた心臓が、再び跳ねる。千景の唇が、額に触れたので。
「くちなしは、天に咲き、邪悪なものを振り払うという。悪運の強さで言えば一理ある。だが、お前自身の業からはほど遠いが、それも一興」
「………な、なんだか…酷いことを言われてるようにも思えるですけど…っ…」
 懸命に強気に振る舞うが、声が震えて上手くいかない。
 何もかもを見透かすように、千景は笑みを浮かべる。
「……”しのぶれど色に出にけりわが恋は ものや思うと人の問ふまで”……お前も、そうだったのではないのか」
「……?!」
「お前の香気は俺を満たし、同時に惑わす。…この俺が、ひとりの女鬼をここまで欲するようになるとは…わからぬものよな…」
 声は掠れ、どこか現ではない口調で告げると、それ以降、千景からは言葉が聞けなくなった。
「……風間……さん…?」
 小さく呼びかけてみたが、返事はない。……眠ってしまったのだ。
 千景の寝息を感じながら、千鶴は困り果てた。
 顔は熱が引かず、心臓は相変わらず高鳴っている。この息苦しいまでの密着から逃れる術を持たないまま、彼は千鶴を口説くだけ口説いて眠ってしまったのだ。取り残された千鶴に切なさは、置いてけぼりにして。
(どうしてこの状況下で眠れるんですか…!わたしの緊張なんて意にも介さないで…!信じられないわ…!)
 千景が眠ったことで、意識が正常に戻ってくると、何故だか腹が立った。その不本意すぎるもやもやを払うように、息をつく。
 頭も背中も抱え込まれてどちらにせよ動けないのだから、このままでいるしかないのだろうか…?
(……それにしても……わたしが放っている香気……)
 くちなし…くちなしの花。白くてどこか儚気な印象の花…。彼にとっての、千鶴の感覚的印象。
 ずっと知らなかった。知ろうとも思わなかった。けれど、一度教えられると、くちなしの香りを感じたくてたまらない。
 今、千景が感じているものを、共有したいと考えている。
 それなのに、千鶴はくちなしの香りが思い出せなかった。江戸ではなかなか見つけられない花だろう。彼と共に西国へ向かえば、感じ取ることが出来るだろうか…。
 千鶴は目を閉じ、そっと千景にすり寄る。
(……暖かい…)
 長く、誰かのぬくもりを感じることのない日々だった彼女は、千景の体温に安堵感を覚え、それが染み渡ってゆくのがわかる。
 先ほどまでの緊張が嘘のようにとけてゆく。
(…ああ、不思議…。わたし、今とても、幸せに感じてる…)
 逃げ出すことは考えない。今夜はこのまま彼の腕の中にいたいと、素直に思えたから。
 そうして、千景の体温に導かれ、優しい微睡みが彼女を包んで行った。







 身体の力が完全に抜け、眠りに落ちていった千鶴の気配に、千景は薄ら瞼を上げて、嘆息する。
(この状況で、何故眠れるのだ…暢気な女め)
 男として意識されないくらいなら、警戒されていた方がよほどかましである。信用しているのか、誓いを守ることを疑わないのか…単に彼女が無防備なだけなのか。
(この女は維新の動乱に身を置いていたくせに、男への警戒心の薄さは小娘以下か)
 面白くない気持ちと、呆れが胸に募る。
 そっと千景にもたれ掛かり、すり寄っている彼女を深く内側に誘い込みながら、千鶴の髪を指で梳く。もちろん、眠っている彼女は抵抗を見せない。
 千景が、あれほど直接的に口説いたというのに、結果がこれ。同じ褥にいるのだから、もう少し、色っぽい展開というものがあってもよかったように思うのだが、千鶴の尋常ではない緊張と動揺が彼に直接響いて、追い込むことを諦めた、その結果もこれ。
 焦るつもりはないのだが、そろそろ愛の言葉のひとつくらい、聞かせてもらってもよいのではないか。色恋沙汰に慣れていないことは見るからに明らかだが彼女もすでに成人した女ならば期待させてくれていいものを…。