誓いは邂逅の夜に
夜風が頬を撫でる。
冷えた木枯らしは、荒れた肌に鋭い痛みを産んだ。
針で刺す様な痛み。
其れに体温が攫われていく感覚は、己の中に在る正体の掴めぬ熱を取り去って呉れる様だった。
風に弄ばれる木々を眺め乍ら思う。
厄介な事に為った、と。
半兵衛に戦場に復帰する話を持ち掛けられた時、本当は歓び等一片も無かった。
只、そう云う流れだった。
為らば、己の手で戦場を絶望の呑底に突き落とすのも悪くは無かろうと、其の程度の積りで頚を縦に振ったのだ。
其処に、矢面を三成と駆ける等と云う幻想は、生まれる事すら無かった。
寧ろ、三成にも見限られるだろうと
そうすれば、もう足掻く事も無かろうと
己を殺す為に来た筈だった。
其れが如何だろう。
此の躯を見られまいとする己の滑稽さ。
如何に取り繕おうとしても、三成の前では胸の深くに沈めた言葉がするりするりと零れてしまう。
そして、総て棄てる筈だった吉継を貫いた真っ直ぐな眼。
此れでは、又縋ってしまう。
己を無にする事が出来ぬ。
其れは、在る種の絶望。
手持ち無沙汰為ら、迫り来る死にさえ笑みを零せただろう。
然し、三成が齎したのは残酷な迄の光。
まるで、闇夜に浮かぶ月ではないか。
無明に沈む事を赦さず、此の身に温もりを与える仄光り。
然し其れは同時に、己の先に在る物が闇でしかないと叩き付ける。
此の温もりは、早に終わりを告げるのだ、と。
そして、又鎌首を擡げる恐怖。
生きたいと思わせて欲しくは無かった。
今宵は三成と云う柵を斬り捨てる、黎明の時と為る筈だった。
何と云う心算違い。
物事は真、思い通りに為らぬ、と月に悪態を吐いた。
忌々しく思い乍ら、尚も暖かみに触れて喜ぶ自分にすら微かな苛立ちを憶える。
吉継の自虐は、妄言などでは無い。一般論だ。
病に冒された躯は忌まれて然るべきで在り、吉継に例外無く降り掛かった最大の災厄は[他者の好奇]だと云える程に。
然し、其の一切を肯定しない眼。
己の為に降った優雨。
――如何して呉れる、三成よ。主の御陰で未だ我が感情は死ねぬ。主の所為で、我は又不幸を知る――
幸福は短命への苦しみしか与えぬと云うのに……。
胸中で嘯き乍ら「徐々戻らねば三成が心配しよ」と、既に内心深くに彼れを迎えて仕舞って居る現実に溜息を吐いた。
――考えるだけ無駄よ、ムダ。昔から彼れは、こうと決めたら何にも譲らぬ。我が何を云おうが聞き入れよう物か。我よ、諦めよ――
己に云い聞かせ乍ら、自室に戻る。
通り縋りの下働き達が又何事かコソコソと話していたが、正直何の感慨も湧かなかった。
時折、脚に鈍い痛みを感じ乍ら、其れでも少し急ぎ加減に為っている己を笑う。
襖の前に立ち、無音の廊下に佇む。
室内には、三成の気配が在る。
然し、想像を遙かに越えた静やかさだ。
己の部屋に入るのに、断りも要るまいと戸を開けた。
「三成よ、落ち着いたか?」
静かに背を向けた儘、正座をしている三成に声を掛ける。
すると、緩慢な動きで躯ごと振り返った三成は又、行儀良く膝を揃えた。
そして、彼は己の前に刀を置く。
一体、何の積りだろうか。
逡巡している間に、三成は真っ直ぐな眼で吉継を見据えた。
「先程は取り乱した。すまない」
取り澄ました声音で云うも、声は震えていた。
眼は真っ赤に泣き腫らし、鼻梁迄も朱の色に染まっている。
「ヒヒッ……刀なぞ出して如何にした?物騒な」
本当に、次の行動が読めない男だ。
一層「此れで楽にしてやる」とでも云って呉れれば幾らか幸な最後では無かろうか。
三成がそんな事を云った日には、槍だか鏃だかが降るだろうが。
其れはソレで悪く無い、等と考えて居ると、三成はゆっくりと無名刀を拾い上げた。
吉継を見詰め、差し出す様に翳す。
「吉継……否、紀之。覚えて居るか?寺小姓だった頃に交わした、最後の刹那迄共に在ると云う誓いを」
突然、何を云い出すかと思えば……。
問われて思い出すのは、幼き日の情景。
共に在れる為らば、死すら怖れまいと笑い合った日々。
今と為っては、まるで夢物語だ。
自嘲気味に笑い乍ら、一つ頷く。
「其れが如何した」
「為らば吉継。今一度、私に誓え。私が触れる事を拒絶するな。私に触れる事を躊躇うな。そして何一つ隠さず、具に総てを私に晒すと」
思いもしなかった言葉に、喉が引き攣る。
――主は此の躯を晒せと申すか。此の腐れた肉を、其の眼の前に――
「断る……哀れまれるは御免よ、ゴメン。主が業に喰われる様も見とう無い。そう述べたら、主は如何する?」
「絶縁だ。其の様に希薄な縁為らば打ち捨てる」
断言するも、手が微かに震えて居る。
本人も自覚が在るのだろう。三成は忌々し気に己の手を睨み、
強く刀を握り締めた。
そして、再び吉継に視線を戻す。
「だが、貴様が誓う為ら私も貴様に誓う。此れから先、何が在ろうと私は変わらない。貴様を憐れむ事もない。同情もしない。只、変わらず傍らに在り続ける……と」
三成の眼に陰りは無い。
此の詞が、既に同情なのではないか。とも思うが、三成は、そんな器用な生き物では無い。
況して、嘘や責任感の無い言葉が何かを救う事等、彼は信じもしないのだろう。
「良いのか?三成よ。後悔するやもしれぬぞ?」
「有り得ん。だが……もし、私が其の様な素振りを見せた為ら……誓いを違えた為ら容赦無く貴様の手で私を斬り捨てろ。そんな腐った心根で生きる等、恥でしかない」
何と愚直な男だろうか。
其れの何処にも、己の得など在りはしないと云うのに命を懸けるか。
何故、己の為に打算の一つも出来ない。
嗚呼、然し……
――其れも又、愛い――
もう、如何しようもないだろう。
今更、如何足掻こうが三成の粘り勝ちは眼に見えた。
何より、吉継自体が[己が三成を曲げる事]を良しとしないのだから。
「主には勝てぬなァ。否、参ったマイッタ」
戯ける様に云い、三成の前に腰を降ろす。
「為れば我は、こう誓お。主の眼に影が射さぬ為ら此の躯が朽つる迄、主に命ごと預けると。主が其れを受ける為らば、主の言葉には逆らわぬ。拒む為らば、主が云った通り絶縁よ」
二人は只々、互いを射抜く如く見詰める。
暫しの間、無音が降った。
「私に、貴様の総てを背負えと?己を棄てると云うのか」
「許より疾うに棄てて居るわ。為れば、先の誓いを交わす前に主が此れを拾いやれ」
三成が刀を置く。
「誓いは成った。さぁ、総てを晒せ」
「あい解った。ヒヒッ覚悟しやれ。眼が腐れて堕ちるぞ」
巫山戯て見せれば、眼前を風が通った。
同時に、頬の包帯がハラリと落ちた。
「三成よ。冗談くらい察しやれ」
「黙れ。私は、其の様な事を口にするなと云った筈だ」
何時の間にやら刀を拾っていた三成が、刀身を鞘に納め乍ら云う。
其の表情は、何処か不貞腐れて居る様に見える。
――やれ、困った稚児よ――
口にせず呟き、紙一重の刃に裂かれた頬の包帯から取り去って行く。
血と膿に滲んだ白布が堕ちるにつれ、三成の表情が痛々しく歪んでは無表情を作り直す。