デンタルラプソディ
夕方。静雄はいつもの場所で、ふうっと煙を吐き出した。トムが仕事を早めに切り上げてくれて、とにかく歯医者に行けと言ってくれたものの、保険証を握りしめたまま静雄はぐるぐると街の中をさまよっていた。
『どうしたんだ?』
日が沈みかけ、東の空から徐々に夜が水をこぼしたように拡がっていく。
「セルティ」
たまたま通りかかった友人、セルティ・ストゥルルソンに声を掛けられた。
心の底から心配されているのが伝わってきて、静雄はつい事情を一から話し始めてしまった。どうにもこの首のない友人には何でも話しやすいのだ。
「まだアレは、俺が中学の頃だったと思う。ああ、そうだ臨也のヤツを知らなかったから…ってかノミ蟲のことを思い出しちまった。ああ、胸くそワリィ。あ、いや脱線したな。ワリィ。とにかく、俺は歯が痛くなって、歯医者に行った。実はガキの頃から虫歯ひとつなくて、はじめて歯医者に行った。情けねぇ話だけどよ、ちょっとばかり怖くて、弟について来てもらった。幽はまあ検診っつーことで」
ふう、と静雄は溜息を漏らす。空を眺めて、遠くを見つめる。
「奥歯が痛かった。はじめてだった。骨折しても刺されても、撃たれてもあんなに痛くねえ…。ともかく痛くてよ。こりゃあ虫歯かと思ったんだが…そうじゃなかった。……親知らずだった」
セルティは黙って静雄の話に耳を傾けている。
「親知らずが生えててさ……。なんかわかんねーんだけど、こいつのせいで痛かったらしくて、結局、抜くことになった。麻酔をかけて、抜いた。それだけだ。それだけだったんだが、歯医者ってのはよう、いろいろ道具使うだろ? 歯を削るためのドリルだのなんだの。そんなもんが無防備な口の中に突っ込まれてよう。治療だっつのはわかってたんだが、途中から武器を向けられている気がしてよ……後は、まあ、いつもの通りだった」
はあ、と俯く。いくらか目が潤んでいるようにみえたのは、夕暮れの加減かもしれない。ともかく静雄が落ち込んでいるのはよくわかった。それが歯の痛みのせいなのか、心の痛みのせいなのか…おそらく後者だろう。
「……歯はどうにか抜いてもらったが、器具は壊しちまった。今の痛みは多分アレと同じでよ。また同じことを繰り返しちまうのが……」
静雄はそこで一端ことばを区切る。それから心に溜め込んだものを吐き出す痛みに、ぐっと目をつむった。
「俺は怖ぇんだ」
遠くで、カラスが鳴いて、夕暮れの物寂しさを伝える。思いがけぬまっすぐなセリフに、セルティはいくぶん躊躇したあと、PDAに文字を打ち込んだ。
『すまない…私は歯医者というところに行ったことがないし、お前の痛みはわからない』
セルティは首がないので、つまるところ歯の痛みというのもわからない。たとえあったとして、妖精が歯が痛くなるかは不明だが。
「いや…そう、だよなあ…ハハ。いろいろ言って悪かったな」
『だがお前が困っているのがわかるぞ!! 私に良い考えがある』
セルティは、きょとんとする静雄の手をがしっと掴んだ。