死が二人を分かつまで -情炎-
それにしてもこの男は、どうして俺にあんな高額を払ったんだろうか。獣人の取引相場は大体10万から30万。俺みたいに毛色が違うような珍しいのは、50万から精々100万。それを知らない訳ではないだろうに、男が俺につけた値は200万。どこに目をつけてるんだ、一体。自慢じゃないが俺にそんな価値はない。ないと、思う。こいつにとってはあったんだからあれだけ払ったんだろうけど。
もやもや考えていると、ばちっと目が合った。俺は大袈裟に体を跳ねさせてしまう。すぅっと目を細めた男が手を伸ばしてくる。叩かれる──俺は反射的に体を丸めて、キツく目を瞑った。
それなのに、いつまで経っても何の痛みも襲ってこない。恐る恐る目を開けると、男は何だか微妙な表情で眉を顰めていた。そんな顔で見つめられているのが気不味くて、俺は視線を彷徨わせる。何か調子が、狂う。もっと酷いことをされると思っていたのに。いかにもな強面だし、左脇に銃持ってるし、こんな馬鹿高そうな車を部下らしい奴に運転させてるし。
端的に言えば、明らかにどっかのマフィアの、しかもかなり上にいる人間だから。偉い奴ってのは、大概自分より下の奴に対しての扱いが荒い。俺の経験上は、特に。
なんて考えて油断していたら、頭に手が乗せられた。俺は体を強張らせる。
でも、それは見当違いの反応だった。
手が動いて、ぐしゃぐしゃ髪を掻き混ぜられる。普通に表現すると、頭を撫でられる。尻尾を振りそうになって、慌てて止めた。どうせコートに隠れて見えないとは思うけど。
「そう怯えるな。取って食ったりする訳じゃない」
低い、落ち着いた声音が耳を擽る。手、気持ちいいな。撫でられたのなんか初めて、かも。
って、違う違う何考えてるんだろう俺。撫でられたくらいで懐くとか、どれだけ容易いんだよ。あぁ、けど、抱き付いてみたいな。ぎゅってしてくれる、かなぁ。どんな感じなんだろう、そういうの。
出方を窺うみたいにじっと見つめていたら、男はふと考えるような表情になった。続いて口が動いて、紡がれたのは思いがけない言葉。
「お前、名前は?」
「ふぁ?」
思わず変な声が出てしまう。
名前──名前、何だっけ。昔呼ばれてたことがある気がする。だけど、思い出せない。前の、その前の飼い主だって名前なんか聞かなかったし、呼ばなかった。覚えていないと困ることが特になかったから、忘れてしまったんだろうか。そもそも俺に名前なんてあったのか、そこから分からなくなってくる。
しゅんと耳を垂らすと、男は不可解そうな表情を浮かべた。ないのか、口の中で呟かれる声を俺の耳は捉える。押し黙った男は、その綺麗な碧で俺を見据えた。そこに過ぎった感情は何だったんだろう。俺には、分からない。
「名前がないのは不便だろう。もしお前がよければ……ギルベルト、と呼んでも構わないか?」
「ギル、ベルト?」
繰り返すようにして口にした名前は、何故か妙に舌に馴染んだ。ギルベルト、ギルベルト。どっかで聞いたかな。記憶にはない、けど、やけにしっくりくる。
一文字だって自分の名前らしきものを覚えていないんだから、与えられたそれに良いも悪いもなかった。こくりと頷いて了承すると、男は僅かに表情を緩めた。何だ、そういう顔も出来るんじゃん。ずっとそうしてればいいのに。そうしたら俺だって少しは、ってだから何考えてんだよ俺。これくらいで絆されたりしないんだからな、多分。
「なぁ、」
俺はふと気付いて声を上げる。俺、こいつの名前、知らない。それらしいものを聞いたには聞いたけど、教えてもらってはいない。
「あんたの名前、何ていうんだ?」
「……ルートヴィッヒ。ルートヴィッヒ・バイルシュミットだ」
ルートヴィッヒ。
う、呼び難い。俺は舌の上で告げられた名前を何度も転がす。ルートヴィッヒ、ルートヴィッヒ、ルートヴィッヒ……… ルッツ?
さっき一緒にいた奴もルートって呼んでたし、愛称の方が呼び易いんだけどな。呼んでもいいかな。でも怒られたら嫌だし、怖い。
「あの…さ、ルッツって呼んでも、いいか?」
そう怖々と口にすると、男──じゃなかった、ルートヴィッヒは物凄く微妙な顔で固まった。え、俺、何か変なこと言った? やっぱいきなり愛称で呼ぶとか、許してくれる筈ない、か。聞かなかったことにして、という言葉を俺の口が紡ぐことは終ぞなかった。我に返ったらしいルートヴィッヒが、破顔したから。
っ、それ、反則。
もこもこふわふわ、真っ白な泡が量産されていく。俺は風呂に入って、というか入れられていた。流石に体は自分で洗ったけど、髪を洗うのはルートヴィッヒに取り上げられた。
わっしゃわっしゃわっしゃ。擬音にすると荒々しそうなのに、手付きはあくまで丁寧で優しい。
ルートヴィッヒはぺたんと床に座った俺の背後で膝をついている。上着は脱いでシャツの袖は捲り上げられているのだが、ズボンは足首までを覆っていた。高そうな布地が濡れるのをルートヴィッヒが気にする様子はない。染みとかついたら取り換えしつかなくなるかもしれないとか、思わないのかな。
小さく耳を動かすと、ふわりと泡が落ちてきた。消えずに空気中に漂うそれに息を吹き掛けてみたりして──俺の視線はふと、目前の鏡に向いた。正確にはそこに映っている自分の姿に。
泡から覗く髪は白みたいな銀色、水が入ってちょっと充血してる目は紅色。ブローカーなんかは月光の色だとかルビーの色だとか薄ら寒いことを言うけど、俺には冷たい雪と血の色にしか見えない。生まれてこの方ずっとこの色で生きてきた筈なのに、何だか見慣れなくて気持ち悪い。本当に変な話だけど。
ルートヴィッヒの指に促されて俺は顔を仰向ける。髪を濯ぐんだとは分かっているけど、無防備に喉を晒すのはまだ怖い。きゅっとノブを回す音がして、丁度いい熱さのお湯が泡を洗い流していく。マッサージするみたいにされて自然に緊張が解れる。
ルートヴィッヒって心読めるのか? それとも顔に出てたかな。はふ、気持ちよさに息を漏らすと、くすっと笑う気配があった。何だよ、何がおかしいんだよ。俺は少しだけ唇を尖らせる。鼻にも掛けられてない、何か悔しい。
むっすりしていると暫くしてシャワーが止められて、ルートヴィッヒが立ち上がる気配がした。仰ぎ見ると、伸びてきた手が泡が残ってないのを確かめるみたいに頭を一撫で。
「きちんと温まってから出てこいよ」
ルートヴィッヒの指が俺とは違う場所を指し示す。頭を振って水気を飛ばしてからそっちを向くと、異様に大きなバスタブがあった。所謂バスタブではない、床面に埋め込むようにして設えられたそれはローマ風呂みたいだ。張られたお湯が仄かに湯気を上げていなければ人口池に見えなくもない。
捲っていた袖を戻しながら出ていくルートヴィッヒを見つめつつ、俺は爪先をそぅっとお湯に入れる。シャワーよりも少しだけ熱い、けど心地良いくらいの温度が体を包む。うん、平気そう。自分でも何を確かめてるのかよく分からないまま、俺はお湯に体を浸した。
作品名:死が二人を分かつまで -情炎- 作家名:久住@ついった厨