死が二人を分かつまで -情炎-
ぼんやり水面を眺めていると、次第に体が温まってくる。頭に過ぎるのは今までのことだ。薄暗くて冷たい部屋ともいえない部屋の中、向けられるのは好奇と蔑みの目ばかりだった。手酷く扱われて、泣いても叫んでも救いの手なんて差し延べられなくて。上辺だけの気遣う言葉さえ掛けられることはなかった。まるでそう扱うのが正しいのだというような仕打ち。人間は皆そうなんだと思っていた。
けど、ルートヴィッヒは、違う。暗くも寒くもない部屋、触れてくる手は酷く、優しい。だから俺は少しだけ、恐怖する。痛かったり苦しかったりはまだいい。絶対にいつかは終わるし、獣人の俺は怪我だってすぐ治る。永遠に続くなんてことがないから耐えられる。束の間の安息に希望を見出だすことが出来る。
でも無条件な与えられる幸せ、優しさ、温もりは、違う。それは必死で築き上げた心の防波堤を瓦解させてしまう。一瞬でも長く続けばいいと思ってしまう。今までに決して手に入らなかったものを甘受するのは、未知の行為だ。もしそれに慣れて当たり前のように感じるようになったら、急に取り上げられた時に俺はどうなってしまうんだろう。
俺はきっと──きっと、耐えられない。元の苦しくて辛い環境に戻ることなんか出来ない。だから、ルートヴィッヒの優しさが、怖い。ルートヴィッヒに手の平を返されたら俺は、俺は。
「信じて、いいのかよ……なぁ、ルッツ」
呟いた言葉に返る声は、ない。
◆ ◇ ◆
夜更けの自室でルートヴィッヒはぼんやりと煙草を燻らせていた。視線は机の上、そこに置かれた写真立てに注がれている。和やかな夕食の後、疲れたのか眠そうにしていたギルベルトを寝室に送っていってから2時間程になるだろうか。あの部屋で彼が寝ているのだと思うと心が軋んだ。
ルートヴィッヒは深く溜め息を吐き、吸いさしの煙草を灰皿に捩じ込む。代わりに手にするのは机上の封筒、つい先程部下が持ってきた調査資料だ。
流石は枢軸の情報網と言おうか、そこには詳細な内容が記されている。
それらは全てギルベルトに関するものだ。尤も名前の欄はUnknown、不明となっているが。しかしそこに添付された写真は、書類にある獣人が確かにギルベルトであることを示している。武骨な首輪を嵌められた、生気のない瞳をした青年。愛玩用として買われた割には随分とぞんざいに扱われていたらしい。中には目を疑うような事実がいくつも含まれている。
彼がこちらにある程度心を開きつつも警戒するような眼差しを向けてきたのは、そこからくる不信なのだろう。運が悪かったといえばそれまでなのだが、何とも同情を禁じ得ない話だ。
動物でもなく人間でもない。微妙な立場にある獣人の置かれる環境は大概の場合、非常に劣悪である。少しでもその状況を改善させようと、政府は近年所有の獣人をデータベースに登録することを義務付けた法律及び管理省庁を設立した。が、他の地域はともかくとしてルカーニアではほぼ無視されているのが現状だった。一番監視が必要な箇所において全く成果が上げられていないというのは、政策における最大の失敗ではないだろうか。
ぱらりと最後の紙を捲ると、留められていない一枚があることにルートヴィッヒは気付いた。見ればそれは件のデータベース登録の申請用紙のようだった。気の回る者がついでに入れておいたものらしい。
さてどうするか、とルートヴィッヒは紙を見つめる。申請すれば様々な保障や権利が与えられる。その代わり、ギルベルトは完全にルートヴィッヒの所有物と見做されるようになる。それは彼が逃げ出した時に公然と捕まえにいくことが出来、どんな手段を使っても連れ戻せるということだ。常時は人間と同等の権利を有するが、主人に反した場合は途端にそれらが剥奪される。獣人の生活の向上を目指しているようで、主人のいい様に扱えるようにしただけだ、という評もあるらしい。
その指摘は実に正しい。法案を成立させた政治家たちの多くも獣人を飼っている。彼らの都合のいいような内容になるのは当然だろう。
ルートヴィッヒは封筒に書類を戻し、椅子に体重を預ける。
視線は自然に写真立てに向いた。薄い硝子の奥で、自分に腕を絡めた「彼」が幸せそうに笑っている。ずくりと心の奥が疼いてルートヴィッヒは堪らずに目を閉じる。蘇ってくる声を慌てて振り払った。感情に流されるな──ここのところずっと自分に言い聞かせている言葉を繰り返す。
「俺は、何を思って…」
誰にともなく呟いてルートヴィッヒは立ち上がる。そっと写真立てを伏せ、部屋を後にした。
使用人が帰るなり与えられた自室に引っ込むなりした屋敷の中は静まり返っている。うっすらと明かりが点っている廊下を足音を殺して歩く。足を止めたのは自室の真反対にある部屋の前。暫し躊躇った後、ルートヴィッヒはドアノブに手を掛けた。ゆっくりと引き開けて内に身を滑り込ませる。室内も廊下と同様にしんとした静けさに満ちていた。
しかし耳を澄ませば穏やかな寝息を聞き取ることが出来る。その主はベッドの上に横たわって、いなかった。確かに呼吸は聞こえるのに、ルートヴィッヒの目はその姿を捉えられない。
どこに消えた、とルートヴィッヒは室内を見回す。探し者はすぐに見付かった。
窓辺に置かれた一人掛けのソファの上で毛布にくるまって丸くなっている、人影。カーテンの隙間から差し込む月光に銀髪が鈍く輝く。アルビノの獣人──ギルベルトが、窮屈そうな格好でそこに眠っていた。時折尾が揺れるのは無意識なのだろうか。
「どこで寝ているんだ、全く…」
この部屋まで送ってきた時は、きちんとベッドに入った筈だ。ルートヴィッヒはベッドに戻してやろうとギルベルトに手を伸ばした。起こさないように気を付けながら毛布ごと抱き上げる。
抱えた体は予想以上に、軽い。浴室でも感じたのだが、身長の割には些か痩せ過ぎている。元々こんな風に不健康な体型をしていたのだろうか、と思う。資料に添付されていた写真はどれも今の状態と大差ない。貧相な白い体、そこにくっきりと浮かび上がる瞳の赤。その姿はまるでこの世のものではないようで、その写真を見た時ルートヴィッヒは悪寒が湧き上がるのを抑えられなかった。
自然界にはほとんど存在し得ない姿、それは悪魔的な色さえ含む。ルートヴィッヒ自身はそうでもないが、両親は敬虔なキリスト教徒だった。異端者、そんな言葉が頭を過ぎる。ギルベルトだけではない、人とも獣ともつかない姿形をしている獣人自体が。
「ぅ……ん、」
もぞりとギルベルトが腕の中で動いて、ルートヴィッヒは心臓が飛び出るかと思う程に驚いた。起こしてしまったかと慌てるが、どうやらそういう訳でもないらしい。目を開ける気配を見せないまま、ギルベルトがすりすりと体を擦り寄せてくる。硬い髪が肌を刺して少しばかり痛い。だが幸せそうな顔に、それまでの思考は丸ごと吹き飛ばされてしまった。
ルートヴィッヒはギルベルトをベッドに下ろし、毛布を掛け直してやる。ころりと寝返りを打った彼は丁度いい位置を見付けたらしく、また穏やかな寝息を立て始める。そっと髪に指を絡めると擽ったいのかくふりと笑みが漏らされた。ルートヴィッヒは目を細める。
作品名:死が二人を分かつまで -情炎- 作家名:久住@ついった厨