凌霄花 《第一章 春の名残》
「わしが送った物の返答ではござらぬか?」
不可解な言葉に、内匠頭は動揺し始めた。
「…失礼ながら、阿久里に?」
「…この前、寺参りでばったりお会いしてな。美しい奥方じゃ。…田舎侍には勿体無い」
ここで、内匠頭は眼の前の老人が自分の大切な妻に、横恋慕しているという恐ろしいことに気付いた。
「余計な、お世話かと…」
猛烈な怒りを感じてはいたが、挑発には乗らずに感情を押し殺そうと努力した。
そんな彼が面白くなく、返歌の内容も気にくわない上野介の眼は、意地悪く光った。
「しかし、情けないのぅ…。そなたの奥方は、ご自身で歌を考えられぬようじゃ。誰ぞと同じじゃのう」
「…はい?」
なにかが空を切って飛んできた。
内匠頭の袖の上に、先ほど上野介が手にしていた短冊が乗っていた。
そこに書かれていたのは紛れもない、妻の文字。
さらぬだに をもきがうへに 小夜衣
わがつまならぬ つまな重ねそ(*9)
内容を理解した内匠頭は、上野介を見上げた。
彼は人を小馬鹿にした笑みを浮かべ、内匠頭の妻を愚弄した。
「お解りにならぬか? 本歌取り(*10)はおろか、丸のまま取って来ただけではござらぬか?」
妻の上野介に対する拒絶と抵抗、自分に対する貞操を内匠頭はその歌に見た。
老人の横恋慕に、自身で頭を捻って歌を詠む価値などない。
阿久里はそう判断したのだった。
冷静な妻を思い、目の前の男を蔑んで内匠頭はフッと笑った。
一方、目ざとく見ていた上野介は厭味を続けた。
「…見た目だけ美しくとも、中身が無ければ意味が無い」
この言葉に、カチンと来た。
顔の表情にそれが現れ、上野介を喜ばせてしまった。
「浅野殿はご自分で物事を考えられぬ。奥方様も同じこと。|あこう《・・・》の殿様が|あほう《・・・》なら、その奥方もあほうか。ハッハッハ!」
「おのれ…」
老人に更に強い怒りを覚えた。
彼の我慢の限界が近づいていた。
知らぬ間に、彼の左手は脇に差した小太刀の鞘を、右手は柄を握っていた。
「…おや? 刀を抜く気か?」
上野介は内心怯えた。
しかし、彼は解っていた。刀を抜けば、お咎めは必定。
普通の武士ならば、身を滅ぼしかねない行為は慎む。それ故、自分の身は安全。
強気を装いながら彼は苛めを続けた。
「…そのような物を抜いたら、どうなるかお解りにならぬか?」
内匠頭は我に返った。
手を刀から離すと、畳に手を尽き無礼を詫びた。
「…御無礼、つかまつりました」
「…一応は、解っておられるようじゃな」
内匠頭は心を落ちつかせる為、眼を瞑った。
彼の瞼に、今朝自分を見送ってくれた妻の顔が浮かんだ。
『お帰りをお待ちしております』
次に、国元の留守を任せた家老の顔が浮かんだ。
『短慮はいけませんぞ。殿』
そして、最後に先ほど別れた家臣が。
『いってらっしゃいませ』
彼らとした約束を守るため、彼らの命を守るため、内匠頭は耐えた。
一時の気の迷いで、すべてを失い、傷つけることもある重要な立場にある己の身を自覚した。
呼吸を整え、己の心の平安を取り戻したと思われた。
しかし、老人は卑劣だった。
大人しくなった若者を挑発し、再び虐めるべく、悪口を並べ立てた。
「この世には美しく賢い女子が山と居る。それなのに、目の前のあほうな奥方だけを可愛がる。まるで…あれじゃな、あれ… そうじゃ、『井の中の蛙』あ、鮒じゃな、鮒」
再び怒りに震え始めた内匠頭を見て、上野介は子どものようにおどけはじめた。
「内匠頭殿にちょうどいい。鮒じゃ、鮒、鮒侍じゃ! 鮒殿は雌鮒と国の井戸で仲良く泳いで居られる方がよろしかろう? はっはっはっは!」
ついに、内匠頭の堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
自分を愚弄し、更には大事な妻に不埒な想いを抱いた。
そして、上手くいかなかったと見るや彼女の散々な悪口を並べ立てた。
その陰湿極まりない老人を、彼は許せなかった。
「上野之介!」
「なんじゃ? あぁ!」
内匠頭は抜刀していた。
この段階でお咎め間違いなし。しかし、後戻りは出来なかった。
逃げようとする憎い老人目掛け、刀を振りかぶった。
「この間の遺恨覚えたか!」
怒声と共に、彼は老人の脳天めがけ、刀を振り下ろした。
その切先は額を切り裂いた。
パッと血飛沫があがったものの、被っていた烏帽子の縁が短刀が深く斬り込むのを食い止めた。
内匠頭の手に、ガツンという鈍い手ごたえが伝わった。
しまったと思った彼は、二の太刀を繰り出した。
しかし、狙われた上野介は身の危険を感じ、身を翻して逃げ出した。
その老人の背中に向かって再び大きく刀を振りかぶり、一太刀浴びせた。
その衝撃で上野介は、畳に倒れ込んだ。その留めを刺そうと、刀を持つ手に力を入れ、刀を構えようとしたが、腕はピタリと止まってしまった。
内匠頭の背後で、男が猛烈な力で羽交い絞めにしていた。
「浅野殿、殿中でござる! 刀をおしまいなされませ!」
耳元で怒鳴る男の言葉は、怒りに燃える内匠頭の耳には届かなかった。
彼は羽交い絞めから抜け出ようともがいた。
しかし、男はひるまなかった。
「浅野殿! しっかりなさいませ!」
もう一度耳元で大声をあげた。すると、内匠頭は最後の力を振り絞り持っていた刀を投げつけた。
彼の眼には、その場から人々に守られながら立ち去る上野介の姿が映っていた。
彼は悔しそうに叫んだ。
「卑怯なり、上野介! 待て!」
「しまった! やってしまったか!」
内匠頭の友で先輩の淡路守は、騒ぎを聞きくなり松の廊下に急いだ。
そこでは野次馬の各藩の大名がひしめき合い、騒がしかった。
彼らの隙間を縫い、ようやく彼の眼に内匠頭が映った。
彼は駆けつけた侍たちに囲まれ、身動きが取れる状況ではなかった。
ぐったりと力無く項垂れて畳に座りこんでいた。その彼の近くには刀が落ちていた。
そして畳には血の跡が。
赤い点々を眼で追って行きついたのは、刀傷を負った上野介。
「あの、若造めが…。あぁ、痛い…。死ぬ…」
彼はみっともなく額を抑え、茶坊主(*11)に両脇を抱えられ泣き言を言いながらよろよろと歩いていた。
その光景に、淡路守の怒りが沸々と沸き起こった。
そして、彼は行動に移した。
彼らにつかつかと歩み寄ると、わざと正面にぶつかった。
「申し訳ございませぬ…」
茶坊主はすぐに謝った。しかし、憎い上野介は無言。
淡路守はこれ幸いに彼を睨みつけ、自身の身に付けている大紋の袖を見た。
そこに白く染め抜かれた輪違い(*12)の家紋には、真っ赤な血が。
それをこれ見よがしに、上野介に見せつけた。
「無礼者! 当家の家紋に血をつけるとは何事だ!?」
手に持った扇子で老人の頭をパシンと強く打ちつけた。
「あぁ…御無礼を…」
老人は大げさにうめき声を上げながら歩み去った。
それを禍々しく睨みつけた後、淡路守は天を仰いだ。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世