凌霄花 《第一章 春の名残》
〈09〉昼行燈
早苗と助三郎は大広間の屋根裏に陣取った。
忍び二人は何処へとなく姿を消した。
しばらくすると、藩士たちが続々と集まり始めた。
彼らの表情、話し声から、不安な気持ちがひしひしと伝わってきた。
「…いよいよだな」
「…気の毒だな」
成行きをすでに知っている二人は、眼下の男たちに同情した。
主を失う悲しみは経験済み。
しかし、その喪失は晴天の霹靂。
二人の予想通り、とんでもない衝撃が赤穂城に走った。
男たちの中に、最初声をあげて泣くものはいなかった。
何が何だかわからない彼らは、感情任せに怒声を上げていた。
疑問や憤り、怒りが悲しみに勝った。
「なぜ殿が腹を召さねばならんのだ!?」
「吉良は、吉良はどうなった!?」
「殿が亡くなったこの藩はどうなるのですか!?」
「御家老、なにか御意見を!」
多くの者が疑問を口にする中、家老大野九郎兵衛は騒ぎを鎮めようと躍起になっていた。
「わしも分からん! とにかく静かにせんか!」
しかし、人望が無い彼では男たちを収めることは出来ない。
若い者が、一際大きな声でその場で彼を無視し、彼より身分が高い者に向かって言った。
「大石殿! 何かおっしゃって下さい! さっきからだんまりではないですか!」
これに便乗するものが多く現れた。
「そうです。御城代!」
「御家老! 眠っていらっしゃるのではあるまいな?」
「大石殿!」
若い者が次々に内蔵助に視線と罵声を浴びせ始めたが、年配の者たちが窘めた。
「静かにしろ、騒いでは話が聞けん」
その言葉で、大広間は水を打ったような静けさに包まれた。
皆、大石内蔵助の言葉を待っていた。
屋根裏の二人も、下の様子に興味津々だった。
「お、ついに昼行燈が化けるか?」
「だといいがな」
内蔵助は衆人環視の中、瞑っていた眼をゆっくりと開けた。
そして口を開いた。
「…少し静かにせんか。夜更けに煩い」
それだけだった。
それだけを気だるそうに言うと、再び眼を瞑った。
この、なんとも期待外れの展開に、広間は再び騒がしくなった。
「そのような悠長な事を言っておる場合ですか!?」
「そうです! 殿が、亡くなられたのですよ!」
「これだから昼行燈家老は…」
口々に文句や不満を述べ、落ち着くどころかさらに騒がしくなった。
屋根裏の二人はがっかりしていた。
「あーぁ。やっぱり昼行燈なのかな?」
あくび混じりに、助三郎がぼやいた。
その欠伸が早苗に移ったが、彼女はそれをかみ殺した。
若くて体力があっても、船旅で疲れた二人に夜の仕事は辛かった。
「…疲れたな」
思わず、口に出してしまっていた。
すると助三郎は急にしゃきっとして言った。
「俺がやっとくから、お前は帰れ」
「…だったら我慢する」
「…なら、一緒に帰ろうか。こんな喧嘩見てても仕方ない」
「そうかな?」
二人で帰るの帰らないのと言っている最中に、大広間では動きがあった。
ついに『昼行燈』に火が灯されたのだった。
内蔵助は眼をかっと見開き、大広間に響き渡る声で男たちを諌めた。
「黙れ! ここで大騒ぎしても、何になる!」
一瞬で騒ぎは静まった。
広間には決まりが悪そうにうつむく男たち。
そんな彼等に、内蔵助は説いた。
「…殿が生き返るか? …吉良様への刃傷沙汰が無くなるのか?」
この言葉に反論する者は誰もいなかった。
「…起きてしまった事は変えられない。元には、過去には戻れない」
内蔵助は穏やかに男たちを諭した。
ようやく落ち着きを取り戻し始めた男たちに変化が見られた。
一人、また一人と、鼻を啜ったり眼頭を押さえたりする者が現れたのだった。
「殿を責めてはいかん。吉良様や上様、幕府を責めてもいかん。…詳しい沙汰があるまで、耐えるのだ」
とうとう嗚咽を漏らす者が現れた。
突然の主の死、それが遠く離れた江戸で起こった。
信じられない、信じたくない気持ちが彼らの中にあった。
静まり返った広間を見渡し、内蔵助は告げた。
「今夜はこれで解散だ。明日以降、今後の対応を決める。早く帰って休め」
この言葉を最後に、内蔵助は広間を後にした。
「…案外やるな。大石殿」
屋根裏に潜む早苗と助三郎の眠気は吹き飛んでいた。
期待はずれだと失望していた男の姿は、本物ではなかった。
今見た物こそ、本当の『大石内蔵助』
そう信じる二人の顔は明るかった。
「言ったでしょう? 人をみかけで判断しちゃいけません」
いつしか弥七が助三郎の隣に居た。
助三郎は大いに驚いた。
「あ、弥七。どこ行ってた?」
「見張りですよ。ちっと厄介な奴らのね…」
彼は手に手裏剣を持っていた。
物騒な武器を触る彼の姿に、助三郎はなにか引っ掛かる物を感じた。
「…見張り?」
「…まぁ、この話はまた後で。それより、あっち行きましょう」
二人を何処へ連れて行こうというのか、早苗は疲れていたので少し躊躇した。
「何処へ?」
「あっちです」
しきりに先導しようとする彼に、二人は続いた。
三人は弥七に先導されるまま歩き続けた。
城の本丸を出、いつしか城の隅の屋敷の屋根裏に連れていかれていた。
そして、その屋敷の奥の一室の屋根裏で弥七は歩みを止めた。
「下を覗いてごらんなさい」
二人は言われるまま、眼下に眼をやった。
そこは、大石内蔵助の屋敷だった。
彼は城から帰るとすぐさま奥の薄暗い一室に籠り、江戸から届いた文を眺めていた。
「…殿、短慮はいけませんと昔から申し上げておった筈ですぞ」
何度も彼は『切腹』という文字を撫でていた。
彼自身、突然のこの出来事に驚き、受け入れきれたはいなかった。
「…なぜ、刀を抜いてしまわれたのですか?」
彼の眼は、『刃傷』という文字を見つめていた。
「…何か、理由があったのですか? 殿」
その時、一粒の水滴が紙面に落ちた。
その雫は、『松の廊下にて…』の事件現場を伝える文字を滲ませた。
「…いけないいけない。濡らしては駄目な大事な文だ」
彼は文をそれ以上濡らさないよう大事に懐にしまった。
その行為は正しかった。
彼の眼からは、次々と涙が溢れだしていた。
「…なぜ刀を抜かれたのですか? …吉良様と何があったのですか?」
それに答えるものは誰も居ない。
内蔵助は我慢が出来なくなり、とうとう嗚咽を漏らして泣き始めた。
「殿…。どうして、どうして…」
いつしか灯りは消えていた。
暗い部屋の中、内蔵助はさめざめと涙を流し続けた。
その姿は屋根裏の早苗の涙を誘った。
彼女の脳裏に、光圀と言葉を交わした最後の言葉、最後に見た彼の優しい笑顔が浮かんだ。
二度と聞けないその声、二度と見られないその笑顔。
それを思うと、酷く悲しく辛かった。
泣くまいと我慢していたが、鼻を啜る音で助三郎に気付かれた。
「…格さん。大丈夫か?」
「…なんでもない」
彼女は乱暴に眼に溜まった涙を拭った。
その姿に、助三郎は何も言わなかった。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世