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凌霄花 《第一章 春の名残》

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「…なんで?」

「一人の男に、あの男に、いつまでも変わらず愛されるなんて思わない方が身のため…」

 あの男というのは間違いなく、助三郎。

 夫が自分を捨てる。
 
 絶対にあり得ない。
そのようなことを早苗は思っていなかった。
 しかし、お菊の言葉を信じたくはなかった。

「…イヤだ」

「イヤも何も、あの男はもう少ししたらあなたを必ず捨てるの…」

「…怖い」

「…そう、怖い。誰だって怖い。だから、覚悟しなさい」

 お菊の絶望と遺恨に満ちた眼に見つめられるうち、早苗は眩暈に襲われた。
愛する夫に捨てられる。そんな日が来ることを早苗は恐れた。
 しかし、脳裏に浮かんだのは夫の優しい顔。
『早苗』と優しく呼び、やさしく触れてくれる、やさしい夫だった。

「…助、三郎」

 愛する彼の名を呼んだ瞬間、早苗の意識は途切れた。

 お菊の狂ったような笑い声と、助三郎の絶叫がこだました。





「…大丈夫か?」

 次に早苗の眼に入ったのは夫の不安げな顔だった。

「…助三郎さま?」

 彼女が呟くと、助三郎は強く彼女を抱きしめた。
そこは宿の部屋だった。
 クロも心配そうに早苗を見ていた。

「良かった…。いきなり気絶したから、心配したんだ」

 泣きそうな声でそう言う夫の腕の中で、早苗の記憶がはっきりしてきた。

「お菊さんが…」

 助三郎は即座に彼女を止めた。

「話さなくていい。思い出すんじゃない」

「…ごめんなさい」

 助三郎は早苗を布団に寝かせると、自分は畳の上で正座した。

「…念のためだ、明日朝一でお払いしに行こう」

「…うん」

「…もう眠れ。疲れたろ?」

 しかし、早苗は眼を瞑らなかった。

「…助三郎さまは?」

「…朝まで見張ってる。変な物が来たら困る」

 すると、早苗は彼に懇願した。

「一緒に寝て」

「え?」

「怖いの…」

 助三郎は妻が『怖い』と言う姿をほとんど見たことがなかった。
驚いた彼は、すぐさま彼女と一緒の布団に入り、彼女を抱きしめた。

「…俺がついてる。怖くない」

「…うん」

 早苗は夫の胸に顔をうずめると、眠りについた。

「俺が絶対に、守るから…」

 助三郎は一晩中早苗を離さなかった。




 助三郎は夜が開けると早苗を連れて人伝に魔よけに効く神社へ向かい、払ってもらった。
効き目が薄れたと見える魔除の守りも納め、新たな守りを早苗に持たせた。
 その日の夕方、元通り元気になった早苗に、助三郎は夜のお誘いをした。
 しかし、いざとなるとどうしても奥手の性が邪魔をする。

「…早苗」

 もじもじしながら、切り出した。

「なに?」

「…今晩、その」

「今晩?」

 早苗も早苗だった。
恥ずかしいので、夫が何がしたいのかをわかっていても、自分から言わない。

「今晩、一緒に…」

「寝るの!?」

 助三郎の眼の前でそう声を上げたのは、お銀だった。

「げっ!」

 盛大に助三郎は驚いた。

「なによ? 『げっ』て」

 お銀はムッとした様子で助三郎を見た。
気不味い彼は眼をそらし、知らんぷり。

「お銀さん、どうかしたんですか?」

「…言いにくいんだけど、お仕事になっちゃった」

「嘘だろ…」

 助三郎は激しく項垂れた。
何も夫婦でまともなことが出来ていない。
 夜のお誘いはパア。

「…で、どういう状況だ?」

 早苗はすかさず格之進に変わった。
横目に、夫が猛烈にがっかりする様子が映った。
 突然男に変われば仕方が無い。

「…赤穂藩は潰れる。明後日皆で何か決めるみたい」

「そうか。じゃあ、明日朝にでも帰らないとな…」

「うそだろ!? まだ何もしてないのに…」

 彼の辛い気持ちは早苗も重々承知。
しかし、心を鬼にして『格之進』にして同僚を窘めた。

「助さん!」

「…わかったよ。仕事、だ」




 一息入れて、三人で茶を啜っていたたが、突然お銀が言いだした。 

「驚きだわねぇ」

「なにが?」

「助さん、見かけと全然違って酷い奥手」

「は!?」

「プッ」

 言われた本人は突拍子もない声を上げ、妻は吹いた。

「だって、その辺の女の子にクサイ事平気で言うのに、早苗さんにはちっともじゃない」

 お銀は笑ってそう言った。
早苗もうんうんとうなずき、茶請けの煎餅をかじった。

「それは…その…」

 どう弁明すべきかと助三郎は迷ったが、お銀はさらっと言ってのけた。

「はいはい。早苗さんが大事だからでしょ?」

「フン!」

 助三郎はそっぽを向いてしまった。

「幸せだな。姉貴」

 そうからかう早苗に、お銀は続けた。

「そういう格さんは真逆じゃない」

「…へ?」

「だって、他の女の子一切ダメだけど、美帆ちゃんにはガツガツしてるでしょ?」

 固まった早苗を見て、助三郎は大笑いした。

「ハハハ。ガツガツだとさ。さすがムッツリ助平殿だ」

 助平呼ばわりされた彼女は、反撃した。

「助平はお前だ助三郎!」

「俺は助平じゃない!」

「あ、奥手は助平もくそもないか」

「うるさい!」


 お銀は部屋の隅でつまらなそうにしていたクロにおやつをあげ、そっと聞いた。

「クロ、夫婦喧嘩は犬も食わないって言うけど、あれは食べられる? 食べられない?」

 クロ自身もそれが夫婦喧嘩なのか、男同士の喧嘩なのかわからなかった。
ただ首を傾げて二人を眺めるだけだった。



 次の日、まだ暗いうちに宿を立つことになった。
早苗の姿は見納め。
 残念そうに眺め、助三郎はため息交じりに妻の名を呼んだ。

「…早苗」

「…なに?」

「…また今度な」

「…うん。また今度」

 夫婦の楽しい旅をまたいつかと約束を交わし、二人は暗雲たち込める赤穂へと戻った。