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凌霄花 《第一章 春の名残》

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 『最高に楽しい』の言葉に助三郎は釣られた。
 
「お、どんなだ?」

 興味津々で聞くと、何とも単純な命令がお銀の口から出た。

「今すぐ帰って、早苗さん誘って寝るの」

「はぁ!?」

 助三郎は唖然とした。

「我慢のしすぎは身体の毒」

 恥ずかしくてたまらない助三郎は意地を張った。

「べ、別に我慢とか、そんなこと…」

「言い訳は十分。早く帰りなさい」

「だから…」

 お銀は助三郎の言い訳など聞く耳持たず。

「あ、そうだ、知ってる? 女の子も我慢はしてるのよ」

 意外な言葉に助三郎は驚いた。
女としては早苗より大分先輩なお銀。説得力はあった。

「…本当か?」

「そう。だから、早く早苗さんの所に行きなさい!」

 お銀は助三郎を屋根裏から追い出した。


 助三郎は家に向かって悶々と悩みながら歩いていた。
 これから向かう家にはクロ以外誰も居ない。
 夫婦として夜を過ごすには絶好の機会。
 
 …しかし、次の日に仕事がある。
 
 妻の『早苗』以上に、同僚の『格之進』に負担が掛かる。
彼の眼に妻の妖艶な姿と、同僚で親友の爽やかな笑顔が交互にちらついた。

「あぁ! 俺はどうすればいい!?」

 助三郎は欲望と理性の板挟みになった。




 その頃、家では早苗が腕によりをかけて夕餉の支度をしていた。
久しぶりの休み。 しかし、彼女は一日中『妻』の仕事をしていた。
 掃除、片付け、洗濯、繕い物… 
今は、煮物を作りながら傍に座っているクロに話し掛けていた。

「これで助三郎さま喜んでくれるかな?」

「ワン!」

「そう? たまには奥様らしいことしないとね」

「ワンワン!」

「え? …今晩?」

「ワン!」

 彼の言葉に、早苗は少し顔を赤らめた。
そして、煮物を放置し彼の隣に座り、彼をギュッと抱きしめた。
 黒い犬は尻尾を振って、早苗の顔を舐めた。

「クロは助三郎さまが誘ってくれると思う?」

「ワン!ワンワン!」

「ありがと。応援してね」

 賢く頼もしい黒犬の頭を撫で、再び料理に取りかかった。

 少しすると、クロがすっくと立ち上がった。
犬は耳が良い。
 大好きな助三郎が返って来た事をいちはやく察知したクロは、早苗に知らせた。



 
「ただいま…」

 玄関で夫を出迎えた早苗は、若干やつれ顔の彼に気付いた。

「お帰りなさい。…疲れた?」

「え? あ、いいや…」

 仕事で疲れたわけではない。
帰り道の『欲望対理性』の精神的闘いで疲れていたのだった。
 そんな事とは知らない早苗は少し残念そうに言った。

「ご飯作ったけど…。すぐ寝る?」

 助三郎は早苗の『寝る』という言葉に過剰に反応した。

「ね、寝る!?」

「…なに驚いてるの?」

「あ、いや、えっと…。飯が良い。飯にしよう」


 助三郎の眼に、先を歩く妻の姿が酷く魅力的に映った。
美しく結い上げた黒髪。白いうなじ…
 我慢の限界が訪れつつあった。
 押し倒したいという野蛮な気持ちを抑え、早苗の手を取った。

「…どうしたの?」

 不思議そうな眼で見上げられた助三郎はもう彼女の事しか頭になかった。
口が勝手に動いた。

「…今晩一晩いいか?」

 早苗は顔を赤らめたが嬉しそうに頷いた。
 
「…うん」


 それから二人は一言も喋らず夕餉を終えた。


 日はとっくに暮れ、いつしか空には月が出ていた。
早苗は月明かりの差し込む部屋で、夫を待った。
 寝間着姿の彼がやって来、彼女と同じ布団の上に座った。
 そして、小さな声でボソッと聞いた。

「…いまから、良いか?」

「…うん」

 助三郎は早苗の頬にそっと触れ、眼を見つめた。
 優しく温かいその瞳に、彼は吸い込まれた。




「…早苗」

 朝日が昇る頃、助三郎は妻を強く抱き締めた。
 離したくはなかった。ずっと彼女と居たいと強く願った。

 …しかし、それは叶わない。

 早苗は名残惜しげに、そっと助三郎の顔に触れた。

「…またね」

「…またな」





「おはよう」

 早苗はわざわざ外に出て、男に変わってから家に入った。
もう少し長く女で居てもよかったが、それでは気持ちの切り替えがしづらくなる。
 助三郎も、態度を同僚に対する物に変える。

「おう。おはよう。昨日は休みどうだった?」

「それなりに楽しんだぞ」

 夫婦として過ごした夜があけると、二人は男同士の関係を保とうと努力する。


「そうか…。そういえば、朝飯食ったか?」

 その言葉で早苗ははっとした。
夫に朝餉を出す前に男に変わってしまった。
 しかし、再び女に戻ることなど出来ない。
 二人の精神状態では、朝餉どころではなくなる…。

「今から作る」

 早苗は男の姿のまま襷掛けをし、台所へ向かった。
すると、助三郎もあとに続いた。

「俺も手伝う」

 二人で仲良く朝餉を準備したが、互いに未練が強く残っていた。
押し黙って黙々と作業し、結局互いに一言も喋らず朝餉を終えた。

 洗い物を終えた早苗の眼に、寂しげな夫の姿が映った。
縁側に座り、外をぼんやり眺める彼の横顔に、早苗は悲しくなった。
 一言詫びを言いたくて、彼の隣にすこし距離を置いて座った。

「…助さん」

「…ん? なんだ?」

「ごめんな…。 俺のせいで…」

 己が男に変われる能力を持ったせいで、仕事をしなければならない。
そのせいで、夫婦で長い時を過ごせない。
 しかし、助三郎はほほ笑みを湛え優しく言った。

「いいや。お前はなにも悪くない。気持ち切り替えれない俺の方が悪いんだ」

「だが…」

「早苗。自分を責めるんじゃない…」

 いつしか、互いに見つめ合っていた。
姿こそ男同士だが、心は男女。夫婦。

 助三郎は恥ずかしげに眼を逸らせた。
早苗も彼を見るのを止め、庭を眺めた。
 
 少しすると、助三郎が口を開いた。

「早苗。やっぱり、悪いのは俺でも、お前でもない」

「…他に居るのか?」

 すると彼は忌々しげに吐き捨てた。

「悪いのはすべて、柳沢様だ」

「…え?」

 早苗が見た夫の眼は、怒りに燃えていた。
私怨以上の怒りをその瞳に見た。

「…利を貪り、地位を得る。その為には人の命まで切り捨てる。その悪人のせいだ」

 正義感が強い夫の言葉を早苗は黙って聞いていた。

「…あの方のせいでこんな事件が起こった。だから俺らにこんな面倒な仕事が来た」

 いつ終わるか解らない、先の見えない仕事。
 いつ夫婦の時間が持てるのか。
 いつ水戸に戻れるのか。
 皆目見当がつかない。

 助三郎は悲しげに呟いた。

「御老公が生きてたら、こんな事件起こらなかった…」

 世直しをした光圀。
この世のすべての悪を取り払う事は出来なかったが、彼のおかげで救われた命は少なくなかった。
 正しい道へ、人々の足を向けさせる事もあった。

 その一役を担っていたのが、この場にこの世に残された二人だった。
  
 二人はこの時、柳沢吉保を裁けない悔しさを感じていた。
 彼は天下の将軍の側用人。飛ぶ鳥を落とす勢いの彼に立ち向かえる者は今の世の中、誰も居ない。