凌霄花 《第一章 春の名残》
かつて彼を牽制し続け、力を抑えつけた光圀は、今居ない。
突然、助三郎が思いついたように名を呼んだ。
「格さん」
「…なんだ?」
「格さんの『この紋所が目に入らぬか!』 聞きたい…」
不思議な要求に早苗は驚いた。
「なんだいきなり?」
助三郎は悲しみを抑えた表情で呟いた。
「懐かしくなったんだ。御隠居と旅してた時が…」
早苗も、その言葉に懐かしさが溢れだした。
「そうだな…。じゃあ、一回だけ」
「お。やってくれるか? 本気でやってくれよ」
「わかった」
早苗はその場に立ち上がり、居住まいを正した。
そして、右手をかざした。
しかし、その手の中に、あの印籠はもう無かった。
印籠は無くとも、早苗はあの頃の気持ちを思い出し、あの台詞を諳んじた。
「この紋所が眼に入らぬか! こちらにおわす御方をどなたと心得る。
畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」
光圀は居ない。早苗と助三郎の眼の前に、畏れ慄く者も誰一人居ない。
しかしただ一人、満足げに眼を細める男がいた。
「いつ聞いても惚れ惚れする…。さすがだな、格之進」
声を張り上げたおかげか、なにやら心が少し晴れた心地の早苗だった。
しかし…
「だが、助さん。これが全部じゃない」
「なんで?」
「…助三郎の『控えおろう!』がないだろ?」
言われた本人の顔に光が差した。
彼は早苗の横に立つと脇差を抜き払い、声を張り上げた。
「一同、御老公の御前である。頭が高い! 控えおろう!」
二人の前に、平伏す者は誰一人いなかった。
ただ、庭の草木が風にそよぐだけだった。
それから二人は思い出に浸るように、何も言葉を交わさず、縁側に座っていた。
いつしか、早苗は姿が男だという事をすっかり忘れ、夫にくっついた。
ぴったりと寄り添い、彼の肩に頭を乗せ、ほんの少しの幸せな気分に浸っていた。
しかし…
「…早苗」
「…なんだ? 助三郎」
「髷が、少しくすぐったい…」
「…へ? 髷? あっ…。しまった!」
早苗は夫から勢い良く身体を離した。
男同士でくっ付いていた事に、彼女は焦った。
「…どうした? そんなに驚いて」
「すまん、俺、俺…」
男の姿にも係わらず、女の心を抑え忘れた。
酷い気の緩み、心の隙に気付いた彼女はうろたえた。
いろんな思いが交錯して乱れ始めた心を落ち着かせようと、彼女は眼を強く瞑り息を整えた。
しかし、心が落ち着く前に彼女ははっとして眼を開けた。
夫の大きく暖かい手が、早苗の手に重なっていた。
そして、顔を上げた早苗の眼に入ったのは、助三郎の瞳に映る『格之進』だった。
「…我慢、してるんじゃないのか?」
「…へ?」
「…我慢してるなら、言ってくれ。その姿が嫌なら、正直に言ってくれ」
震える声で、助三郎はそう言った。
しかし、早苗は覚えていた。
『…格之進が居なくなるなんて俺は耐えられない』
その時は嬉しかった。
自分ともう一人の自分。両方受け入れてくれる夫に心から感謝した。
しかし、今この瞬間、彼女は男の姿を捨てたかった。
ただの女に、助三郎の妻だけになりたかった。
「…すまん。助三郎」
早苗は変わり身を解き、助三郎に抱きついた。
「ごめんなさい…。助三郎さま」
彼は今にも泣き出しそうな彼女をしっかりと抱き止めた。
「大丈夫か?」
夫の腕の中で、早苗は訴えた。
「…お願い。もうちょっと、あとちょっとだけ、女で居させて」
結局、早苗は昼まで助三郎の腕の中に居た。
一度、見張りにやってこない二人を心配したお銀が覗きに来たが、彼女はなにも言わずに去った。
早苗の乱れに乱れた心は、助三郎と触れ合う事で落ち着きを取り戻した。
彼女は、スッキリとした顔で夫を見上げた。
「…助三郎さま」
「なんだ?」
「…もうそろそろ、変わる」
助三郎は深刻な表情で彼女を見つめた。
「…無理はするな。イヤだったら、イヤって言うんだ」
早苗はその言葉に笑みを浮かべて首を振った。
「無理してない。イヤじゃない」
「…本当か?」
「本当。わたしは、貴方の親友で、同僚で、義兄弟でも居たいから…」
それが早苗の結論だった。
妻の答えに、助三郎は若干の不甲斐無さ申し訳なさを感じた。
しかし、言葉にはしなかった。
その代わり、早苗を力強く抱きしめ彼女の耳元で、ある約束をした。
「…早苗。この仕事が終わったら、二人きりで温泉行こう」
「…温泉?」
「あぁ。温泉でゆっくり過ごそう。一日中一緒に。いや、ずっと一緒に居よう。誰にも邪魔されずに」
早苗は、夫の顔を見つめた。
彼の優しく強い瞳には、『早苗』が映っていた。
「約束、ね?」
「約束、だ」
二人は静かな部屋で、長い長い口付けを交わした。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世