凌霄花 《第一章 春の名残》
〈13〉真意
「助三郎さま!ごはん!」
早苗は助三郎の布団を引き剥がした。
「もう…?」
中で丸まっていた男は、嫌そうに目を開けた。
彼女はその男に説教を始めた。
「なんでそうやって布団の中で丸まって寝るの?」
「…はぁ?」
未だ寝ぼけ眼の助三郎は大あくびを飲み込んでいた。
妻の質問の真意がわからず、答えあぐねていると彼女はいそいそと布団をたたみ始めた。
「髪結いを呼べないんだから、もうちょっと私の手間考えて寝てくれない?」
その言葉で彼は頭に手をやってようやく気づいた。
髷が乱れている。
早苗は『助三郎さま』の髪を結う事はお手の物。
しかし、『助さん』の町人髷は未だ苦手だった。
「すまん…。ま、今日も何もないだろうから適当でいいよ」
再び大きなあくびをした。
赤穂に戻って来たはいいが、城では大きな動きが全然なかった。
毎日評定、評定の堂々巡り…。
それゆえ、張り込みはお銀に任せ、二人はのんびり過ごす日が多くなっていた。
しかし、早苗はいつも早起き。
何かしらすることを見つけ、絶えず動いていた。
「ダメ。良い男が台無しでしょ?」
助三郎は、彼女に礼儀正しく頭を下げた。
「…お褒めいただき、恐悦至極」
しかし、乱れた髪と肌蹴かけた寝間着姿でやっても何の締りもない。
早苗は彼の様子をクスリと笑った。
「はいはい。早く着替えてご飯にしましょ」
夫婦が朝食を囲む隣で、お銀は早々に出かける支度をしていた。
矢絣模様の着物で、髪を武家風に結い上げ、大きな風呂敷包みを手にしていた。
「ちょっと二三日留守にするわ」
「女中奉公か?」
「そう。でもどうにかならないのかしら、お揃いの矢絣模様って」
いやそうに顔をしかめ、気に食わないのか帯の位置を試行錯誤し始めた。
彼女を面白げに眺め、早苗は以前から疑問に思っていたことを口にした。
「録って出るんですか?」
「もちろん。結構くれるのよこれが」
お銀の潜入捜索は、時に小遣い稼ぎの意味もあった。
「でも、気をつけてくださいね」
早苗が心配すると彼女は簪を素早い動きで逆手に構えた。
「大丈夫。何時でも息の根止められるから」
そう笑顔で言った美しい顔の裏に忍びの性が垣間見えた。
彼女の言葉に引っかかりを覚えた助三郎は小さく聞いた。
「…あのさ、なにかヤバイの居るのか? 弥七が怖かったんだが」
弥七が何かを警戒するそぶりを助三郎は何度か見ていた。
しかし、お銀は全くそんなことはなかった。
「もしかしたら、あれがヤバイっていうのかしら? 吉良さまの忍びとか、公儀隠密とか?」
二人の顔がさっと青ざめた。
「それって、かなりヤバいぞ」
「うん。危ない…」
「そう? でも、ほかにもうじゃうじゃいるわよ。日本中の藩の忍び」
あっさりと言ってのける彼女に夫婦は驚いた。
普段彼らはそんな忍びに遭遇してはいなかった。
「本当ですか?」
「そう。直接関係無いのに、お殿様の興味本位でここまでくるなんて可哀想でしょ?」
「興味本位なのか…」
助三郎が遠くを眺めるような眼差しでつぶやく姿を、早苗は黙って眺めていた。
お銀が出て行った後、夫婦は茶を啜りながら一息ついていた。
助三郎はふと思いついたように早苗に向いた。
「…そう言えば、早苗は潜入捜査とかしないよな?」
「…へ? …うん、しない」
早苗は一度だけ女の姿で潜入捜査をした。
しかし、助三郎はそれを知らない。
その際、身の危険に晒された。
恐れた光圀がそれ以降二度と『早苗』を作戦に使うことはなかった。
あの晩の仕事は恐ろしかったが、同時に大事な思い出でもあった。
それ故、夫には黙っていた。
「…潜入捜査はお銀さんのお仕事。わたしは、助三郎さまと一緒に居ることがお仕事」
「…そうか」
その日の昼間、早苗は江戸に送る報告書をしたためていた。
そこへやってきたのは助三郎。彼女の背後に腰掛けた。
「…格之進、聞いてくれるか?」
本式の名で呼ばれ、はっとした早苗は彼を振り向いた。
背筋を伸ばし正座するその姿は、町人の身形ではあったが『佐々木助三郎』そのもの。
早苗も彼に習い、身形を正し向き合った。
「なんだ? 助三郎」
彼は早苗をじっと見つめた。
それは、早苗に対する眼差しではなかった。
男が男に対する、真剣な何かを訴える物だった。
「…俺は、殿の為にこの仕事をしてるんじゃない」
早苗ははっとした。
彼女の動揺に気づいた彼は説明し始めた。
「…殿が興味本位で俺たちに仕事を振ったとは思っていない。だが、俺は綱條公の為にやってるんじゃない」
「…だったら、誰の為だ?」
早苗はなんとなく感づいた。
しかし、彼の真意を確かめたかった。
「…御老公の為だ」
その答えに早苗は確信した。
夫は藩主に表向き忠誠を誓ってはいる。しかし、心の底から忠誠を誓うのは徳川光圀ただ一人。
亡き主を今でも慕い続けるその心に早苗は打たれた。
そして、その心が赤穂侍たちの中に存在するのだろうかと、思いを巡らせた。
有ってほしいと、強く願った。
反応をうかがう助三郎に、早苗は穏やかな笑顔で答えた。
「助三郎、俺もだ」
『格之進』の心は助三郎と一緒。
…『早苗』の心は『助三郎さまの為』だったが。
ほっとした様子の助三郎に、穏やかな表情が戻った。
「…茶淹れてくる。ちょっと一息入れよう」
「あぁ」
助三郎は、早苗の為に茶を淹れに台所へと向かった。
彼は茶請けに煎餅を選び、皿に盛った。
それをクロが見ていた。
「ワン!」
「ん? 良いんだ。早苗は饅頭だが、格さんは煎餅なんだ」
「ワンワン!」
「なに? 一つだけだぞ」
クロにねだられ、彼は煎餅を一つ差し出した。
うれしそうにそれを咥えたクロの頭をなでようとしたその時…
「何してくれた!?」
男の怒鳴り声が家の中をこだました。
驚いた助三郎は茶も菓子もそのままに早苗の居る部屋に直行した。
クロも煎餅を咥えたまま、主の後に続いた。
「格さん! どうした!?」
助三郎の目に入ったのは、半泣きの格之進だった。
机の横に立ち、その上の文を指差しながら助三郎に訴えた。
「弥七が風車刺した! 穴空けた! 二日かかって、やっとここまで書いた文に!」
彼女の努力が無駄になった。
ポンと肩を叩き、慰めた。
「…可哀想に」
「書き直しだ…。せっかく今日終わると思ったのに…。また明日もこの格好だ…」
早苗は己の右手を睨み付けた。
彼女は必ず男の姿で仕事をしなければならない。
それは文章を作成する時でさえ…。
なぜなら、筆跡が早苗と格之進では全く違うから。
女の筆跡で書けば怪しまれる。それゆえ、今まで藩に提出した物すべての書類は男の姿で書き上げた物だった。
「俺が代わりに書く。な?」
助三郎が俯く早苗にそう言った途端、早苗はぱっと顔を上げた。
「ダメだ。『佐々木に書かせるな』って言われたろ?」
文章を書くのが好きな早苗は毎日日誌をつけている。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世