凌霄花 《第一章 春の名残》
そのおかげか、文章力もかなりのもの。
上司からの評判も中々良い。
対する助三郎は仕事をあまり真面目にやらない。
文章もそこそこ。それゆえ、上からとうとうその命が下ったのだった。
「どうせ俺は文章が下手だよ…」
一人がうなだれ、一人が拗ね、一匹が煎餅を口に咥えたまま立ち尽くす部屋で、一人だけ冷静な男が居た。
弥七だった。
彼がこの騒動の発端となったにもかかわらず、彼に悪びれた様子など全くない。
彼は赤い風車を回収すると、ニヤリと笑った。
「格さん、報告書は書かなくていいんで」
「なんで?」
「お二人の口から、殿様に直接報告すれば済むんでね」
そう言って彼は懐から分厚い文を取り出した。
次の日、早苗と助三郎は久しぶりに城に張り込んでいた。
今度は床下。弥七からの指示だった。
「…これで一段落着くかな?」
「たぶんな」
昨日二人が受け取った文に、江戸に戻れとの命があった。
なぜなら、この一連の刃傷事件に一旦キリがつくから。
その証拠が、明後日に決まった城の明け渡し。
それを見届けるのが二人の赤穂出立前の仕事になった。
赤穂城の一室で家老二人が話し合っていた。
「…大石殿、淡路守様から城明け渡しについてのご相談が」
大野九郎兵衛が、文を手にそう声をかけたが、
「おや、受け取りは淡路守様? これはまた、お上も粋なお計らい」
なんとも気の抜けた返事に、九郎兵衛は肩を落とした。
「大石殿、もう少し真面目にやってはいかがかな?」
「これはどうも失礼。まぁ、仕度は準備万端。特に打ち合わせは不要にてとのお返事を」
「…ではそれで。ところで、昼過ぎからの評定は如何致す?」
「まぁ、なるようになりましょう。ハハハハハ…」
あっけらかんとした彼に、九郎兵衛は更なる不安を覚えた。
しかし、城代家老に任せるしかない。
「では、よしなに…」
彼の不安は的中した。
評定の席で城の明け渡しを正式に告げるや否や、若い藩士中心に不満の声が沸き起こった。
こうなっては九郎兵衛では収拾をつけられない。
内蔵助の出番だった。
「大石殿、お任せ致す…」
少しばかり嫌味に言ったが、本人は気にする様子も無く上座に立った。
そして、声を張り上げようとしたがその必要は無かった。
一瞬で、大広間は水を打ったように静まりかえっていた。
しかし、その中の年配の男から声が上がった。
「…大石殿、真意をお聞かせ願えぬか?」
声の主を目に捉えた内蔵助は、彼に聞いた。
「某の、真意と申されますと?」
彼は、強い眼差しで彼を見た。
「素直に城を明け渡すなど、貴方の考えではないはず…」
その言葉に、再び部屋はざわついた。
男は内蔵助から視線を逸らすことがなかった。
射るような強い視線に、彼はこの場で考えていた計画を始動することに決めた。
それは彼の目的を達成させるための、大いなる計画の第一歩にすぎない。
しかし、重要な第一歩だった。
深呼吸をすると、よく通る声で告げた。
「…某は明後日、城を明け渡す気はござらぬ」
誰一人、その言葉に目に見える反応はしなかった。
しかし、皆その言葉に驚き、動揺していた。
先ほど内蔵助に声を掛けた男、吉田忠左衛門兼亮(*1)は満足げな表情を浮かべた。
そして再び内蔵助に力強く言った。
「して、如何致すおつもりか?」
内蔵助は即答した。
「城を枕に、追い腹を斬り、殿の元へ」
再び城は大混乱にいたった。
一人だけ冷静にこの状況を眺めていた男がいた。
冷静というより、彼らの無謀な計画を愚かな選択だと見下していた。
「…ついては行けぬ」
彼は大広間を後にした。
この日、『ケチケチ家老』こと、大野九郎兵衛知房はこの日姿を眩ませた。
…この後、何年も『裏切り者』『不忠臣』と称される。
そんなことなど、この時の彼が知る由も無かった。
次の日、大広間には切腹裃に身を包んだ男たちがいた。
早苗と助三郎もしっかり床下に張り込んでいた。
そっと様子を伺い、藩士の数が目に見えて減っていることに二人は驚いた。
『切腹』と聞いて、逃げたに違いなかった。
「助さん、追腹(*2)は御法度だよな?」
「あぁ。だから、大石殿の真意が切腹な訳が無い。俺はそう踏んだ」
彼の自信が有るからこそ、二人はその場に居た。
もし、切腹などするのであれば、助三郎は早苗を家に縛り付けて一人で出てくるはずだった。
「…やっぱり仇討ちなのかな?」
早苗は、どっちにしろ物騒な結果になることに心を少し痛めた。
「方々、某と行動を共にしてくれること、有り難く存ず」
大分減った藩士を見渡し、内蔵助は満足げな笑みを浮かべた。
そして、懐から一巻の紙を取り出した。
「では方々、ここへ御名前と血判を」
皆、切腹を覚悟してその場に来ていた。
もう何も怖くは無かった。
言われるまま、名を記し血判を押そうとした男たちだったが、その作業は一向に進まなかった。
巻物が回ってくる度、男たちは、その巻物の先頭に書いてある文言に目を皿のように丸くし、内蔵助の顔と見比べた。
そのたび、穏やかな表情でうなずく内蔵助だった。
床下では、助三郎が自分の予測が当たったことに満足げな表情を浮かべた。
「…やっぱりな。追腹なんて大嘘だ」
すべての者に巻物が回り、それが内蔵助の手元に戻った。
彼はそれを丁寧に巻き取ると、一同を眺めた。
皆揃いの死に装束。
だが、皆の瞳は死を目の前にした人間の物ではなかった。
彼らの瞳の中では、静かに闘志が燃えていた。
内蔵助はその場に立ち上がると、よく通る声で宣言した。
「明日、予定通り淡路守様にこの城を託し申す」
もはや、それに対する不満の声は無かった。
「その後、後舎弟大学様を盛り立て、御家再興を図りまする。しかし…」
皆はもう分かっていた。
大石内蔵助が、何を望んでいるのか。
「しかし、某が本当に望むは御家再興ではござらぬ」
皆は、身を乗り出し彼の言葉を待った。
彼の口から、彼の言葉で確認がしたかった。
内蔵助は湧き上がる感情を抑えるため、瞳を瞑った。
すると、亡き主の顔が浮かんだ。
『余は、良い殿様になれると思うか?』
かつて彼は少し不安げに内蔵助にそう聞いた。
彼は、穏やかな笑顔で答えた。
『何もご心配は要りませぬ』
内蔵助は眼を開けると、大広間に居る同士皆の顔を見渡し、真意を告げた。
「某が望むは、吉良上野介が首、ただ一つ!」
その姿は、もはや『昼行灯』ではなかった。
次の日、赤穂城明け渡しは滞りなく進んだ。
それを見届けた水戸藩の二人はこれ以降の赤穂浪人の動向調査をお銀に任せ、すぐさま旅装に身を包み、港へと向かっていた。
「助さん、あれ…」
早苗は足を止め、城を指差した。
「なんだか、燃えてるみたいだな…」
一方、早苗は顔をしかめた。
「まるで血みたいだ…」
互いにその光景に別の感じを抱いたが、二人とも小さな不安を感じていた。
それは、『仇討』
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世