雪割草
〈05〉早苗への来客
早苗はウキウキしながら風呂場ヘ入った。
大好きな風呂での至福の時。
それしか考えていなかった。
いつもどおりに帯をとき、着物を脱ぎ、肌着も脱ぐ。
そして、肌が外気に触れた時、やっと異変に気付いた。
「…へ?」
早苗は、その時初めて自分の男の肉体を眼にした。
パッと眼を逸らしたが、早苗も年頃。全く興味が無いわけではなかった。
おずおずと視線を戻すと少しばかり観察し、呟いた。
「男の人って、こんな感じなんだ…」
細身だが、筋肉がついて硬く締まった身体は、全体が柔らかな女とは対象的。
そして、ふと思った。
「…あいつも、こうなのかな?」
彼女の背後で突然引き戸が開いた。
「早苗、着替え…」
それはふくだった。
「なんですか!?」
慌てた早苗は脱いだ着物で身体を隠した。
「あら、ごめんなさい。…本当に、男。息子ね」
少し寂しげな様子で、母は立ち去った。
早苗は変わり果てた自身の身体を見られ気分を害したが、気を取り直して風呂で汗を流すことに決めた。
温かい浴室に入り、湯気を立てる湯船にどっぷりとつかると、お湯が勢いよく溢れだした。
その量はいつもより格段に多かった。
さらに、いつもはゆったり手足を伸ばせる湯船が狭く感じられた。
「…やっぱり、身体がデカいのかな?」
ぼんやりあれやこれや考えながら、早苗はひりひりする肘を触った。
ズキッと、頭に響く痛みに驚き、見ると切れていた。
「…あ、痛いわけだよ。…げ、ここも青くなってる」
膝だけでなく、負傷個所はそこらじゅうに広がっていた。
父と兄の容赦ない特訓で、早くも早苗の身体は青痣だらけだった。
「跡にならないと良いけどな…。でも、明日もあんな特訓だったら…」
明日も、明後日も続くであろう激しい内容を考えると、憂鬱になった。
大きな溜息と共に、彼女は項垂れた。
瞑った目蓋に、許婚の笑顔が浮かんだ。
彼の為に、彼に付いて行く為に、特訓をする。
その決心が揺らいでしまっている自分に気付いた彼女はハッとして眼を開いた。
「ダメだ。頑張らないと」
決意を新たにした彼女の心を、ある物が打ち砕こうとした。
それは、これから日々付き合って行く、女には絶対に無い物。
彼女は今朝、それを見て泣いた。
しかし、彼女も武家の娘。二度同じ事で泣きはしない。
その代わり、真っ青になった。
「最悪!」
早苗は逃げるように、イヤな眼を見た風呂から出た。
イヤな物を再び見ない様、厭々ながらも着替えを済ませ、居間へ戻った。
そこには、ニヤニヤしている平太郎が。
「風呂はどうだった? 格之進?」
早苗は思いっきり彼を睨んだが、くすくす笑われるだけで全く意味は無かった。
疲れは風呂で落としたはずだったが、別の疲れがどっと彼女を襲い、彼女の口は不満をぶちまけ始めた。
「…兄上、なんで男にはあんなのが要るんですか?」
途端、平太郎は凍りついた。
「…は?」
早苗は言葉を続けた。
「…あんな変なもの、一体、何に使うんですか? 何の意味があるんですか?」
平太郎は妹の思いがけない、答えに困る質問に困惑し始めた。
眼の前の『弟』は本来ならば嫁入り前の『妹』
『弟』になら、平気で色々知識を吹き込める。しかし、妹は別だった。
父の又兵衛に似て、少しいい加減で少し不真面目だったが、純粋な妹に刺激強い知識を植え付ける事だけは抵抗があった。
「お前、何にも知らんのか? 母上に、何にも教わって無いのか?」
確認を取ろうとしたが、妹は首を傾げるだけだった。
「なにをですか?」
更に困惑し始めた平太郎の傍に、下女がやってきた。
彼女は最も年が若く、早苗と一番仲が良かった。
「平太郎さま、佐々木さまがお見えですが…。早苗さまはどちらに?」
優しい声に、平太郎の困惑も収まったが、彼女の言葉の中に引っ掛かる物があった。
「…あれ? お前、朝居なかったか?」
早苗が格之進に変わった事は、家中の者に知らせたはずだった。
それに漏れがあった事に、彼はその時気付いた。
「はい。先ほど参りましたが」
「そうか…。あのな、早苗は助三郎には会えん。…ああいう状態だからな」
顎で彼は早苗を指した。
キョトンとした彼女はその方向に目線をやった。
そこには、若い男が座っていた。
「え?」
早苗は、恐る恐る彼女に告げた。
「男になったんだ…。よろしく…」
下女は、眼を皿のようにして、黙ったままだった。
その様子を見た平太郎はくすくす笑った後、彼女に確認を取った。
「で、あいつは玄関か?」
「いいえ、客間にお通ししました。申し訳ございません」
下女はいつも通りの事をしただけだった。
平謝りする彼女を責めず、平太郎は早苗に窺いを立てた。
「どうする? あいつに会うか?」
兄の問いかけに、早苗はきっぱりと言い放った。
「いいえ。会いません」
驚いた平太郎は、確認をとった。
「…いいのか? そのまま旅に出たら、当分あいつとは男同士の同僚の関係だけだぞ」
「構いません。…男同士も、今の許婚の幼馴染の関係も変わらないでしょうし」
手を握られた事が無ければ、『好き』と言ってもらっても居ない。
ただ結婚の約束をしただけ。それ以外は昔からの幼なじみの関係と何ら変わっていない。
そんな妹を兄は不憫に思い、義弟になる助三郎に助言もしていた。
しかし、効果は無かった様だ。
「…あの奥手野郎、まだ言ってなかったのか」
「はい?」
「まぁいい、俺が話をつけてくる。…一発締めてやろうかな」
平太郎は助三郎に会いに、客間へと向かった。
今に残されたのは早苗と、下女。
居心地悪そうにモゾモゾしていた早苗に、下女が声を掛けた。
「…本当に早苗さまですか?」
不安げな、信じられないと言った眼つきで彼女は早苗を見た。
少し悲しくなったが、彼女は答えた。
「…本当に早苗だ。でも今は格之進って名だ」
「格之進さま…」
彼女の眼は、いつも通りの物に戻っていた。
ほっと安堵した早苗だったが、再び二人の間に沈黙が流れた。
それを破ったのは、兄の平太郎だった。
「早苗! まだあいつとその姿で会いたくないよな!? 今すぐ隠れろ!」
「はい!」
早苗は慌てて兄の言いつけに従った。
早苗が身を隠した後、平太郎と助三郎が話しながら庭にやってきた。
「早苗殿には、明日も会えませんか?」
上手い誤魔化しを考えようとしたが、焦っていたので頭は回らなかった
「あいつは…。ちょっと用事があって出かけてる。当分戻らん」
助三郎は信じたが、ガッカリした様子で肩を落とした。
「そうですか…。会って話しがしたかったのですが。よろしくお伝えください。」
彼の肩をポンと叩き、元気づけた。
「心配するな。あいつは大丈夫だ。」
「…そうですか? だといいのですが」
奥手な将来の義弟の様子に、収まっていた平太郎の怒りが込み上げてきた。
「そうだ…。助三郎」
「はい?」
「…おまえ。なんで早苗に今の今まで何も言わなかった? え?」