雪割草
〈08〉藩邸
次の日、朝から光圀は将軍に会いに登城していた。
今回の紀州までの旅の目的を伺って来る旨を告げられた御供二人は、藩邸で留守番。
一藩士でしかない二人が、江戸城に登城などできない。
暇な二人は、昼から武術の鍛錬を一緒にすると約束した後、思い思いに過ごすことにした。
そこで早苗は、人探しに時間を使うことに決めた。
目指すは、ある女中の姿。
今の姿では面と向かって会えないが、友人が働いていた。一目でいいから、会いたかった。
しかし、捜索は困難を極めた。
昨夜藩邸に入った時は時間が遅かったせいで人が少なかった。しかし、その日は違った。
多くの藩士とすれ違い、声をたくさん掛けられた。
物珍しさと、人探しの為きょろきょろしていた。そのせいで何度も『道案内』された。
迷子ではなかったのだが、『女中に逢いたい』などと言えば厄介な事になる。
大人しく案内され、様々なところを歩いたが、求める彼女の姿はついにみつからなかった。
一方の助三郎は、部屋で手紙をしたためていた。宛名は、早苗。
彼はこの前の事に対する謝りと、心配するなというような文言を書き、封をした。
そしてその文をどうやって水戸に送ろうか考えながら部屋を出てぶらぶら藩邸内を散歩していると、女中とすれ違った。
助三郎はその顔に見覚えがあった。
立ち止まって彼女に、声を掛けた。
「もしや、由紀殿ではないですか?」
すると、先ほどの女中は助三郎を振り向き、驚いた顔になった。
「はい…? …あっ佐々木様ですか?」
それは早苗の親友、由紀だった。
「はい。お久しぶりです」
彼女も故郷の懐かしい顔に、笑顔で話し始めた。
「江戸にいらっしゃっていたのですか?」
「はい。御老公の供をして参りました。二三日したら、また出立いたします」
「そうですか。大変なことで…」
「いえ」
由紀は思い出したように、助三郎に質問を投げかけた。
「そうです! 早苗はどうしていますか? 佐々木様と近いうちに結婚すると手紙で知らせてきたのですが…」
「あぁ。元気ですよ。今回の旅に付いて来たがっていましたが、我慢してもらいました」
先ほど手紙を書いた際に思い出した許婚の顔がふと助三郎の脳裏に浮かんだ。
最後に見たのは、涙を溜めた顔だった。
「…そうですか。私も会いとうございました。」
寂しそうな由紀の様子を見て、助三郎は少し後悔した。
江戸まで連れてくる事は出来たかもしれない。由紀に合わせてやる事が出来たかもしれないと。
しかし、助三郎はその後ろめたい気持ちを、吹っ切ろうとした。
くよくよしても、仕方が無い。
「由紀殿は、今もここでお仕えを?」
「はい、奥方さま付きの女中をしております。しかし、わたしも嫁ぐことになりました。じきに、お暇を頂きます」
「そうでしたか。 おめでとうございます」
助三郎は心からのお祝いを述べた。
「ありがとうございます…」
しかし彼女は浮かない顔だった。
不思議に思った助三郎は彼女にうかがうことにした。
「いかがされましたか?」
「その、心配事が少し…」
この言葉に、助三郎は笑顔で彼女を安心させるように言った。
許婚の親友の手助けになりたかった。
「よろしければ、お話しください。力になりますよ」
すると、由紀も明るい顔に戻った。
「そうでございますか? では…」
そして彼女は安心したように、話しはじめた。
「…そうでしたか。それはご心配でしょう」
由紀の話を一通り聞き、助三郎は彼女を慰めた。
「はい…。どうしてよいかわからないので…」
「お一人では、難しい事です。しかし…」
そして彼は低く、小さな声で言った。
「御老公なら、無理ではないかと」
「え!? …ご老公さまですか?」
驚きを露にする由紀を静かにさせ、助三郎は説明を始めた。
「…実は我々は上様に命じられて、紀州に旅をする予定です。御老公にお頼みしたら、なにか手を貸してくださるかもしれません」
「そうでございますか? …では、お会い出来るよう取り計らっていただけませんか?」
由紀はその言葉に期待し、彼に頭を下げた。
「心得ました。御老公に早速御伺いを立て、今晩には面会できるかと…。そうだ、今晩、お時間大丈夫ですか?」
彼は肝心な事を忘れていた。由紀は仕事が有る身。
奥方様付きともなれば宿直やらなんやら面倒な仕事も多い。
しかし、彼女は力強く答えた。
「大丈夫です。引きとめられても、抜け出してきます」
彼女のこの返答で助三郎の計画は出来上がった。
後は上手く光圀に説明するのみ。
「では、今晩この場所で」
約束を交わし、二人は別れた。
「あっ」
助三郎は大事な事を忘れていた事に気付いた。
それは早苗への手紙。
由紀に頼めば、確実に早苗に届く筈だった。
絶好の機会を逃した彼は深く溜息をついたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「良いか。晩も会えるし」
助三郎は主、光圀が由紀の願いを聞き届け、彼女を助けてくれるだろうと信じていた。
助三郎が部屋に戻ると、丁度早苗が昼の支度を女中にしてもらっていた。
彼女はしきりに早苗に話しかけていたが、早苗はどうにもこうにも落ち着かない様子。
面白い光景を助三郎は少し黙って眺めていたが、腹の虫が鳴った。
「すまんが、こっちも飯の支度を頼む」
「はい。ただいま」
女中はささっと立ち上がり仕事へ戻って行った。
「はぁ、やっと行ってくれた…」
早苗はホッと一息つき、手に持っていた湯呑の茶をぐっとあおった。
「冷めちゃったじゃないか…」
そのおかしな姿を、助三郎は笑った。
笑い声にムッとした早苗は、ちらっと彼を見た後、手元の急須に手を伸ばした。
そして茶碗に勢いよく湯を注いだ。
「なに怒ってる?」
助三郎はニヤニヤしながら早苗の隣に腰掛けた。
そして、不機嫌そうな許婚の顔を覗いた。
「ひょっとして。格さん、女が苦手なのか?」
この言葉に、早苗は思った。
同性が苦手も何もあった物ではない。
しかし、変身時は話しが違う。
『格之進』を眼の前にすると、女の眼の色、声音、仕草が変わる。
そうやって男に媚を売る女の多さに、早苗は辟易としていた。
そんな女たちに、どう対処すべきか彼女には知識が無かった。
「…どうして良いかわからなくなる」
そう率直に述べた。
すると助三郎はニヤッとした。
「あ、慣れてないんだな? でもな、いつも通りで良いんだ」
知ったような口を聞く彼に少し不満を感じたが、そこはぐっと抑え穏やかに聞いた。
「いつも通り?」
「そうだ。男友達と遊んだり、話す時みたいにってことだ」
「へぇ…」
早苗に『男友達』など居ない。
当たり前だが、『女友達』ならたくさんいる。
本来の姿で彼女たちとは普通に付き合える。
他愛も無いおしゃべりをしたり、突っつきあって笑ったり。
しかし、そのような事を『格之進』の時に、近づいてくる女にしたらおかしい。
そこで、彼女は助三郎を見習おうかと考えた。