雪割草
〈82〉守りたいもの
死神に会った次の日の朝から、助三郎は死に物狂いだった。
あの晩早苗から奪って捨てた懐剣を探し、二度と使えないよう山に埋め、
不吉な死装束は火にくべた。
宿の者に医者を紹介してもらい、心の病の治療法を聞いた。
近くの神社に祈祷に行き、魔除けのお守りを貰って来た。
とにかくありとあらゆる手を考え策を講じた。
そのおかげで、徐々に早苗はよくなり、普通に過ごせるまでになった。
…表情に感情が戻らない以外は。
助三郎は躍起になって治療を急ぐので、女二人に心配された。
「ゆっくりで良いんじゃないですか?焦らないで…。」
「だが、一刻を争う。早くしないと…。」
「なにかあるの?」
「……。」
「…とにかく、あせったらだめです。心の問題は難しいので。」
「そうよ。薬なんかないから、地道にやらないと。」
「わかってるが…。」
二人には言えない。
早苗の寿命が尽きかけてるなんて。死神にそう言われたって。
言っても怖がられるか馬鹿にされるだけ。
それに、これは俺が引き起こした、俺が終わらせなければいけない問題だ。
その様子を黙って見続けていた光圀は、救いの手を差し伸べるべく助三郎を呼び出した。
「助さん、仕事じゃ。」
「はい。何をすれば?」
「早苗を明日一日、連れだすのじゃ。」
「え?どうするのです?また医者ですか?」
「…鈍いの。逢い引きじゃ。部屋にこもってばかりではいかん。」
「そうですか?」
「笑ってもらいたいのじゃろ?男女二人での逢い引きが一番良い薬じゃ。」
「出かけても、よろしいのですか?」
「言ったであろ?仕事じゃ、仕事。」
「ありがとうございます!」
主からうれしい仕事をもらった助三郎は、明日の支度にとりかかった。
次の日の朝、朝餉を取った後、早速早苗を誘った。
「今から出掛けないか?」
「どこ行くの?」
「このあたりの散策だ。弁当持ってクロも連れて行こう。」
「うん。」
手早く支度をし、二人で歩きだした。
手を早苗に向いそっと差し出すと、ギュッと握ってきた。
「いつまで?」
「時間は気にしなくていい。疲れたら帰ってゆっくり寝ればいい。」
「うん。」
山に入ると、クロの友達の獣たちが寄ってきた。
皆で静かな森の中を歩き、滝を眺めたり、山の綺麗な緑を眺め、ゆっくり過ごした。
日が高くなったころ、開けた原っぱに来た。
知らないうちに、獣達は自分たちのねぐらに帰っていなくなった。
代わりに、クロが違う者たちを連れてきた。
以前、助三郎が頼んだ『葉っぱ好き』のお友達、うさぎ、りす、ネズミ、鹿だった。
皆おとなしく早苗と戯れ、彼女を和ませた。
しばらくすると、彼らもクロに連れられ帰って行った。
丁度お腹が空く頃合いになったので、木陰に二人で座った。
助三郎は持ってきた弁当を早苗に差しだした。
「食べるか?」
「お弁当、作ってくれたの?」
「玉子焼きと、おにぎりしかできなかったけどな…。また料理教えてくれ。」
由紀に下手くそだとさんざんけなされ、口喧嘩しながらも一生懸命作った。
しかし、早苗はおにぎりを手にして見つめたまま、口に運ぼうとしなかった。
不安になって聞いてみた。
「…どうした?食欲ないか?」
「大きいから、一人じゃ無理。半分こしましょ。」
そう言うと、大きなおにぎりを半分に割った。
「…確かに、デカかったな。」
「手が大きいでしょ?力も強いし。…ちょっと固い。」
「…本当に固いな。握りすぎた。」
「しょっぱい…。」
「塩加減も失敗したか…。ダメだなぁ…。」
「心配しないで、おいしいから。」
「じゃあ、この玉子はどうだ?」
名誉挽回、ちょっとは自信がある。
「うん、甘くて美味しい。」
「そうか。食べられるか?」
「でも、こんなに砂糖入れて…宿の人に怒られない?」
「大丈夫だ。代りに薪割りしたから。」
「そう。じゃあいいのね。」
口数が今日はいつもよりずっと多い。
表情が戻ってくれればいいが…。
「クゥン…。」
いつの間にか、クロが二人の目の前に戻って来ていた。
お腹が空いたらしく、物欲しげにおにぎりを眺めていた。
「欲しいか?食べろ。どうだ、美味いか?」
「…あれ、どうしたの?」
クロは口におにぎりを入れてもらって最初は喜んでいたのに、いきなり尻尾を振るのをやめどこかに行ってしまった。
しかし、すぐに戻ってきて何事もなかったかのように尻尾を振っていた。
「あれ、お前おにぎりどうした?」
「ワン!」
来いというそぶりを見せたので、ついていってみると小さな木の根元に掘り返した跡があった。
あきれ返ってそれを眺めていると、クロはなぜか誇らしげに尻尾を振っていた。
「ひどいな。お前おにぎり埋めたのか?そんなに固かったか?」
「ワン!」
「ごめんなさいは?せっかくご飯作ってくれたのになんで埋めちゃったの?」
「クゥン…。」
「もうやったらダメよ。いい?」
「ワン!」
「口直しに甘い卵焼き一切れやるから来い。」
昼をとった後、穴を掘ったせいでクロが汚くなっていることに気がついた。
「体洗ってやらないとな。茶色になってる。」
「お風呂だって。クロ。」
「クゥン…。」
さっきまで、おいしい卵焼きを食べて浮かれていた仔犬は、悲しそうに鳴いた。
尻尾が股の間に巻き込まれ、おびえた様子だった。
「怖いのか?心配するな。」
「助三郎さまに洗ってもらいなさい。」
助三郎は嫌がるクロを連れ、小川に行った。
最初は怖がって逃げようと必死だったが、観念した様子で洗われていた。
早苗は川岸の安全な岩の上で、そんな二人の様子を眺めていた。
「どうだ?気持ちいいだろ?…うわっ、体を振るな!」
一瞬手が離れた隙をついて、クロは体を振った。
しずくがたくさん降り注ぎ、驚いた助三郎は川の中に尻もちをついた。
「おい、濡れたろ!」
川の中で尻もちをついたまま文句を言う主をおもしろがり、クロは、彼の腹の上に乗った。
「ひっ。上に乗るな!余計濡れるだろ!」
「アオーン!」
「おい、遠吠えはやめろ!オオカミが来たらどうする!?」
「アオーン!ガウガウ!」
「うわ!クロがオオカミになった!」
この様子がどうやら早苗には面白かったようだ。
「フフッ…。」
え?
「助三郎さま、びちゃびちゃよ。…ハハハ!変な顔!ハハハ!」
…笑っている。
戻ってから初めて声を出して笑顔で笑っている…。
ずっとなかった笑顔だ…。
思わず涙が出てきた。
「どうしたの?あっ、クロ、そんなに舐めたらだめよ。」
仔犬は涙をいち早く見つけ、一生懸命舐めはじめた。
「…クロ、しょっぱいだろ?」
「クゥン…。」
おとなしくなってしまった助三郎とクロの様子が早苗には気になった。
「ねぇ、なんで泣いてるの?」
「目に…クロの毛が入っただけだ。」
「そう?」
「…クロ、早苗がやっと笑ったぞ。良かったな…。」
守りたかった笑顔。それを自分で傷つけて壊した。
永遠に戻ってこないかもしれないって、怖くてたまらなかった。
でも、戻ってきた。