雪割草
〈87〉怖い怖い…
夜中に早苗は突然声をかけられ、目が覚めた。
相手は助三郎だった。
「…起きてるか?」
「…なんだ?」
「…厠、ついてきてくれないか?」
あまりにも情けない頼みごとに早苗は呆れた。
「…大の男が何怖がってる?」
昼間に暴れたせいで疲れて眠い早苗は、イラついていた。
「だが…。」
「…心配するな、この宿にはいない。行ってこい。」
適当にあしらい、再び眠りに就こうとした。
「…なぁ、早苗。」
「…イヤだ。男の厠についていく女があるか。」
「…頼む、何でもするからさ。」
「…じゃあ、みんなに甘いものおごってくれるか?」
そんな気は更々なかったが、頭に思い浮かんだので聞いてみた。
「…あぁ。好きなのなんでも良いから。」
男の誇りを捨てるほど怖がる助三郎をそのままほかっておくのはかわいそうになった。
「まぁいいおごらなくても。ついてってやろう。」
しかたなく、早苗は彼に付き添うことにした。
宿の厠は外にあった。
眠いのをこらえながら、怖がる助三郎を厠に連れて行った。
「早く行ってこい。」
「なぁ。中まで…。」
「イヤだ!スケベ!」
「じゃあ、見張っててくれ。」
本当に面倒な性格だとうんざりしながら闇の中、何かがいないか眺めていたが、
睡魔は容赦なく早苗を襲った。
知らないうちに立ったままウトウトしていた。
「ぎゃー!出た!怖い!!」
叫び声に眼がさめ、あたりを見回すと助三郎は腰が抜けたらしく、足にしがみついていた。
「おい、どうした?」
「早苗、あれ、あれ…。」
みっともなく指を差し、うわごとのようにつぶやく許嫁にあきれながら、その視線の先を見ると、居た。
「こんばんわ。」
『…こんばんわ。』
「……。」
助三郎は近づいてきた幽霊に驚き気絶してしまった。
「はぁ?おい、起きろ!…軟弱いな。」
その様子に幽霊は申し訳なさそうに眺めていた。
謙虚な幽霊だったらしく、丁寧に謝られた。
『…申し訳ありません。脅かしてしまったようで。』
「いいえ、これは極端に怖がりなんで…。こちらこそ気分を損ねさせてしまいまして。」
『…いいえ。介抱してあげてくださいね。』
「お気使いありがとうございます。あの、今晩は、何の御用だったんですか?」
『…孫の顔をちょっと見たかったんで、出て来ました。』
「会えましたか?」
『可愛い寝顔を見られました。あっ、そろそろお暇を、ではおやすみなさい…。』
「おやすみなさい。」
穏やかな幽霊と話している間も助三郎は気絶したままだった。
足もとに転がる彼は、情けなく見えた。
「…さてと、俺の未来の旦那様は気絶中。おい、助さん?」
呼びかけても返事はなかったので仕方なく部屋の布団まで担いで行った。
布団に寝かせ、軽く頬を叩くと眼を覚ました。
「おい。大丈夫か?」
「あぁ…?おはよう…。」
「寝ぼけるな、まだ夜だ。」
そう言った途端、助三郎は布団から飛び起き、きょろきょろと不安げにあたりを見渡した。
「幽霊は!?居ないよな!?」
怖くてたまらないという表情で早苗の着物に縋りついていた。
「…本当に幽霊だけはいつまでたっても怖いんだな。さぁ、もう寝よう。明日起きれなくなる。」
「…イヤだ。まだ怖い。」
着物をつかんだまま離さなかった。
「いいだろ、御隠居と新助にはさまれてるんだから。俺は寝るぞ。」
立ち上がりざま、掴んでいた手は手首に移動していた。
「なんだ?」
「…なぁ、早苗、一緒に寝よう。」
「…は?ダメだろ?怒られる。」
女の姿で寝れば、光圀からのお叱りは絶対だ。
「…添い寝だけだ。変なこと絶対にしない。明日の朝早く起きればばれないし。な?」
しばらく考えた早苗は少し乗り気になった。
「…そうかな?」
「おっ。その気になったか?」
ぱっと笑顔になった助三郎に早苗もたまらなくうれしくなり、すぐさま女に戻った。
「うん!寝ましょ。」
助三郎にこっそり布団の中に招き入れられた。
そっと抱きしめられ、耳元で囁かれた。
「…お前に夜通し会えて俺は幸せだ。生きてて良かった。」
「…もう!大げさね。…ねぇ、怖くない?」
「…あぁ。もう大丈夫だ。早苗がいるから怖くない。」
「…うれしい。」
ギュッと抱きしめた。
「…寝たくないな。お前の顔、ずっと見てたい。」
「…わたしも。目をつぶるのもったいない。」
「…徹夜するか?」
「…うん。明るくなったら布団から出ましょ。」
布団の中でイチャつく二人に誰もその時は気がつかなかった。
朝方、助三郎は何かの視線を感じた。
しかも視線だけでなく声が聞こえた。
「…助さん。」
自分を呼ぶ声が耳触りだった。
「…うるさい。」
「…助さん、なにをしておる?」
聞き覚えのある怖い声にやっと眼がすこし覚めた。
「ううん…。朝か?…早苗、起きないと、怒られるぞ。」
腕の中の彼女を起こそうとした。
「…イヤだ。まだ眠い。」
「だな。もっと寝てようか…。」
甘い時間をもっと味わっていたかったので、早苗を抱きしめた。
ん?やけにゴツゴツしてるな…。
そういえば、重いな…。
でも、いいや…。
次の瞬間、雷が落ちた。
「二人とも、起きるのじゃ!!!」
恐ろしい声に驚き、助三郎は飛び起きた。
「早苗、ヤバい起きろ!あっ、お前!」
彼は怒られた驚き、添い寝を見られた驚きのほかに、もうひとつ驚いた。
腕に抱いていたのは、昨晩夜通し一緒に話していた女ではなく、彼女の弟の格之進だった。
「へ?くそっ、変わってたか…。ハハハ…。」
冗談笑いをしていた早苗の様子を見た光圀はどんどん眉根に皺を寄せていた。
危機を感じた助三郎は、こそっと彼女に耳打ちした。
「…戻れ、早苗ならあんまり怒られない。」
「…わかった。…ご隠居さま、わたしたちになんの御用でしょうか?」
「……。」
なにも言わずただ黙っている光圀の眉間の皺は今までにない深い物だった。
「…あの、ご隠居?」
すさまじい雷が落ちた。
今までにないほど声を荒げ、ヤクザも裸足で逃げ出すほどの怒声が二人の頭に降り注いだ。
「一体男二人で何をしておった!!!なぜ二人で寝ておった!?」
「何もやましいことは!何もしてません!」
「そうです。昨晩わたしはこのままで寝ました…。」
早苗のこの言い訳を聞いた光圀は素っ頓狂な声をあげて驚いた。
「なんじゃと!?女のままで助さんと寝たのか!?」
「あっ…。」
「いくら許嫁でも、祝言前じゃ!!!絶対にいかん!!」
普段早苗にはほとんど怒らず、孫娘のように可愛がっている光圀が、彼女を集中的に叱り飛ばしている光景はとても珍しかった。
そのせいか、まだ寝ていた面々も心配して様子をうかがっていた。
助三郎は必死に許嫁を守ろうと弁明し始めた。
「ご隠居、私は何もしてません。一切手は出していません。本当です!」
「そうです!ご隠居さま、信じてください!隣で寝ただけ…。」
しかし、早苗に光圀は容赦なく怒鳴りつけ、主命を言い渡した。