雪割草
「なんだって?」
「まぁ、良いじゃないか! 一回やって見よう、な?」
まるで子どものような彼に、早苗は少し呆れた。
しかし、彼の喜ぶ顔が見たい彼女は折れた。
「…わかったよ。やればいいんだろ?やれば」
早苗は『乱闘』という言葉を恐れた。
いくら柔術が得意とはいえ、今の姿が男とはいえ、まだ実戦は怖かった。
できるならば穏便に済ませ、戦いたくはなかった。
その後、一行はかくまっていたお光を辰二のもとに連れて行った。
事情をよく知らない彼女は、辰二の前で長屋を出ていくと言った。
それを辰二が止めた。
「…行かないでください。…寺子屋をこれからも手伝ってください」
「…わたしより適任の人がたくさんいますよ?」
「…いいえ。貴女じゃないとだめなんです。…貴女が好きだから」
「…えっ?」
「…私では、だめですか?」
「いいえ、うれしい…」
「お光さん…」
辰二はお光を抱きしめていた。
「…妻になってくれますか?」
「…はい。喜んで」
そこには幸せそうな男女の姿があった。
早苗はうらやましくその光景を眺めていた。
許嫁に、面と向かって『好きだ』と言われたことなど無い。
ギュッと抱きしめてもらったことなどあるわけがない。
手さえも、握ってはくれなかった。
いつか許嫁はそういう行為をしてくれるのだろうか?
想いを伝えてくれるのだろうか?
その時、自分はどう思うのだろうか。
想像して早苗は幸せな気分になりかけた。
しかし、彼女の眼に今の自分のゴツイ男の手が眼に入った。
一気に現実へと引き戻された。
今は男の『格之進』
女の『早苗』ではない。
旅の間はなにがあってもありえない。
「はぁ…」
思わずため息を漏らした。
隣に想う男がいるのにままならない。
その男も、小さな溜息をついていた。
「…うらやましいな。武士だとなかなかああはいかない」
「…そう、だな」
『武士』という身分、建前があるが故、彼は早苗に何もしなかったのか?
しかし、彼女は友人から、そう言う行為は好きな人だったらやってくれるはずと聞いていた。
それを信じる早苗は、強く願った。
隣の男に好かれていますように。
『武士だから』という言葉は建て前、強がりでありますようにと…。
その晩、宿で最終確認をしていた早苗のところへ光圀がやってきた。
「…早苗、頼みがある」
手を止めて、早苗は主に向いた。
「なんでしょうか?」
「道中の路銀の管理と印籠、やはりお前さんに任せたい」
意外な依頼に少し驚きつつも、責任重大な仕事。
自分に務まるのか、不安だった。
「…助さんではだめですか?」
「…あれはいい加減なとこがある。見てわかったであろ?」
「はぁ…。まぁ…」
間違いは無かった。
算盤は間違う、帳簿は書き間違える。字が上手くない。
光圀は既に早苗に任す気満々だった。
「助さんにな、『格さんの方がしっかりしておる』そう言ったら決まりが悪そうにしておったが、喜んでおったぞ」
いかにも助三郎らしい話に早苗は呆れた。
「…あいつ」
しかし、早苗は嬉しかった。
女の身でも仕事が出来る。任せてもらえる。
少しばかり自信が出てきていた。
「頼むでの。格さん」
「はっ」
早苗は大事な仕事を引き受けた。
次の日の朝早く、出立する一行の元へ辰二とお光が見送りに来た。
「御老公様、ありがとうございました。寺小屋を二人で続けたいと思います」
そういう二人は幸せそうな雰囲気に包まれていた。
羨ましげに眺める早苗の元に、お光が寄って来た。
そして小さく彼女に言った。
「…格さんも頑張ってね」
「…へ?」
「好きな人のこと!」
思わず許婚を見てしまう所だったが、ぐっとこらえお光に答えた。
「ありがとうございます…」
お光は辰二の元へと戻った。
光圀は若い二人の幸せそうな姿を眺めると、その場を後にした。
「では、お二人で仲良く頑張ってくださいな。ではこれで失礼」
しばらく歩いていると、早苗の横に助三郎が寄ってきた。
「格さん」
「…な、なんだ?」
早苗はぼんやりと他所事を考えていたので、驚いた。
「なに考えてたんだ?」
なぜかニヤリとする彼から眼を逸らした。
考えていたのは、彼の事だった。
「…なにも」
助三郎の興味は薄れたようで、彼は真面目に話し始めた。
「ふぅん。…それより、この旅このままいくと、普通より時間かかるぞ」
「…どういうことだ?」
「世直ししながらの旅だ。面白いし、良い事だが何かと手間がかかる」
「そうだな…」
「現に一日で行ける所を三日や四日掛かってる」
「本当だ」
早苗は真面目に分析し、的確な事を離す彼の話に聞き入っていた。
しかし、彼は最後に言ってはいけない理由をつけた。
「あとはな、俺とお前だったら問題ないが、ご隠居が…」
年寄りはコソコソ話の聞き取りが得意である。
光圀も例外ではなかった。
すぐさま助三郎の話に気付き、怒りをあらわにした。
「助さん! それはどういう意味じゃ!?」
「なんでもありません! …まだ何も言ってないのに」
「言わずとも解る! わしの歩みが遅い。そう言いたいんじゃろ?」
助三郎は思っていた事を当てられ、気まずくなった。
更に、主は彼の味方まで奪おうとした。
「格さん、助さんはこういう人間じゃ、今後十分気をつけなさい」
早苗は素直に言う事を聞いた。
「はい、よく覚えておきますご隠居」
助三郎は焦り始めた。
「ご隠居、こういう人間ってどういう意味ですか!?」
「気にせんでもよい。ハッハッハ!」
「しかし!」
焦る助三郎に早苗は笑顔で言った。
「心配するな。 助さんのこと嫌いじゃないから」
「よかったの。ちゃんと好かれておるぞ。ハッハッハ!」
意味深な二人の言動に助三郎は首を傾げた。
「なんなんだ? 二人とも…」
まったく訳がわからない助三郎だった。