雪割草
〈13〉小田原での災難
…怒鳴ってしまってすまなかった。
道中命に関わるような危ないことはしない。
仕事は真面目にこなす。心配するな。
格之進殿とはうまくやっていけそうだ。
母上と妹を頼む…
助三郎から貰った文はこれだけだった。
恋文ではない。
謝りの文言しか、早苗に向けた言葉が無い。
夕方、早苗はその文を何度目になるか解らないが読み返し、溜息をついた。
初めて彼から貰った文。
しかし、恋文ではない。
残念に思ったが、文に返事は必要。
助三郎を安心させるためにも、返事を書こうと決めた。
だが、いざ書いて驚いた。
字が違った。
白い紙の上に、しなやかな優しい字は座っておらず、角張って力強い字がドンと構えていた。
それは、誰がどう見ても、男が書いた文。
「…なんで字まで変わる?」
それは書いた本人が驚くほど。
なんどやっても男の手蹟から抜け出せず、彼女は諦めた。
「…ダメだ。このゴツイ手のせいだ」
若干の苛立ちと、想うようにならない歯がゆさに頭を抱えた。
しかし、彼女はある事を思いついた。
そして、さっそく主に打診した。
「御隠居。文の返事を書きたいのですが…」
「なんじゃ? あ、助三郎からの恋文か?」
興味津々に聞く主に、早苗はあっさりとした口調で答えた。
「いいえ。普通の文です」
「なんじゃ、つまらん…。で、何か問題でも?」
「その、私の筆跡が完全に男の物なので…」
早苗は本来の姿で書いた文字と、格之進で書いた文字を光圀に見せた。
すると、彼は驚いた様子でそれを見た。
「…これまた、ずいぶんな変わりようじゃな。…いくらなんでも、男から返事が戻ってきたら驚く」
「…それ故、勝手を言って申し訳ないのですが、元に戻って書きたいのです」
本来の姿であれば、筆跡は女。
怪しまれる事はない。
主は彼女の頼みを快く引き受けた。
光圀は早苗に、甘い。
「…わかった。お前さんの休息ついで、ということでどうじゃ?」
「ありがとうございます!」
嬉々として主に頭を下げた。
次の日の昼、一行は小田原に宿を取った。
そこで早苗は、助三郎の武術の稽古に付き合った。
強くなるため、やらなければいけないこと。
しかし、その日の助三郎は少し違った。
手加減が一切なかったのだ。
どうやら、何か鬱憤でも溜まっていたらしく、凄まじい剣捌き。
そんな彼の相手を必死にしたせいで、彼女は疲労困憊。
しかし、助三郎は息をあげながらも笑顔だった。
パチンと心地よい音が響いた。
徐に、助三郎は口を開いた。
「…格さん、兄弟いるか?」
「兄が一人」
少し間が開いたが、再びパチンと同じ音が。
「…いいな。俺は妹だけだからな」
「そうか?」
早苗は彼の言葉に引っかかりを感じ、彼を見た。
「だって、兄弟だったら、稽古一緒にできるだろ?」
それも一理ある。しかし、それは男の言い分。
「まぁな…。でも俺は妹のほうがうらやましい」
助三郎には千鶴という妹が居た。
男勝りな彼女だったが、早苗を本当の姉のように慕っていた。
早苗もそんな将来の義妹が好きだった。
「…まぁ、ひとそれぞれだな」
ふと早苗は思った。
千鶴をはじめ、多くの友人に黙って国を出てきた。
もちろん、男に変わり光圀の供をするなど極秘事項。しかし、そのせいで『早苗』が水戸から消えることになる。
特訓中は曖昧に不在をごまかしていた。それが長期に渡るとなれば…。
いい加減な父と兄が上手くごまかせるのか、少し不安になった。
そんな彼女の眼に、よろしくない物が入った。
「…助さん、その手はダメだ」
助三郎と将棋の対戦中。
彼が他所事を考えている早苗の隙をつき、ちょっとズルイ手を打っていた。
しかし、早苗は難なく見破った。
彼女は将棋が得意。
「気付いたか…」
残念がる助三郎の声を聞きつけ、光圀がやって来た。
「おや? どちらが強いか見物じゃな」
腰を下ろし、彼は二人の対戦を見守った。
しばらくは攻防が繰り広げられたが、突如、助三郎が指す速度が落ちた。
そして、一声。
「待った!」
「待ったは無しだ」
ピシリとそう制止され、助三郎は打つ手を考えた。
しかし思い付かない。
そこで、時間稼ぎに全く違う話をし始めた。
「格さんは強い! 敵わん! 算学得意だし、計算早いし正確だし…」
「そうでもない。で、どうする?」
早苗は助三郎の手には乗らずに、将棋に集中していた。
しかし、助三郎はある一つの疑問に捕らわれていた。
「そういえば職場どこだ? 聞いてなかったよな?」
とんでもない質問に、早苗は凍りついた。
「え!? あ…。えっと…」
『格之進』は『男』でない。藩士でもない。
それ故、出仕もしてない。架空の男。
微妙な己の立場に困り、言葉に詰まった。
そこへ上手い具合に光圀から助け船が出された。
「確か、まだ部屋住みであったな?」
「はっ? えぇまぁ…」
光圀に合わせておけば間違いないと、素直に自分は部屋住みと言う事にした。
すると、助三郎は難なく信じた。
「そっか。まぁ俺は早かったからな…。まだ部屋住みでも不思議じゃないか。羨ましいな…」
「え?」
助三郎が見せた少し寂しそうな表情が、早苗の心に引っ掛かった。
しかし、次の瞬間彼は満足げな表情で早苗に言った。
「ほら、格さんの番だ」
どうやら話している間に打つ手を見つけたようだ。
しかし、そんな物早苗は軽く打ち砕ける。
「…甘いな助さん」
助三郎がやっと見つけ出した活路より、早苗が予め見抜いていた隙が勝負を決めた。
「えぇ!? そりゃないだろ…」
がっくりと肩を落とす彼に、早苗は満足そうに言った。
「助さん、精進がたりんな。精進」
早苗は勝利を宣言した。
片付け始める前に、光圀から助三郎に挑戦状が叩きつけられた。
「さてと、助さん。今度はわしと勝負じゃ」
「負けませんよ!」
今度こそはと助三郎は意気込んだ。
この隙に光圀は早苗を送り出すことに。
「ということで格さん、行って来なさい」
「はい」
早苗が立ちあがると、助三郎は興味深げに聞いた。
「どこ行くんだ?」
「ご隠居の遣いだ。なるべく早く戻ってくるから」
「ふぅーん。気をつけろよ」
すぐに興味は失せたようで、彼は将棋の駒並べに集中し始めた。
その彼に、早苗は注意した。
「しっかり留守番しろよ。勝手に変な事はするな」
昨晩、助三郎は勝手に抜け出し一人で飲みに行っていた。
早苗が付き合わなかったからだ。
「…はいはい、わかってますよ」
怒られたことを思い出した彼は、しぶしぶそう返事した。
満足そうにそれを眺めると、早苗は部屋を後にした。
「では、行って参ります」
「…由紀、行くぞ」
廊下の先に由紀を待たせてあった。
彼女は訝しげな表情で早苗を見上げた。
「…そのままで行くの?」
男の姿のままの親友と出歩く事に、少し気が引ける様子だった。
言い交わした相手がいるからだろう。