雪割草
「…外で元に戻るから心配するな」
その言葉通り、彼女は宿の外で早苗に戻った。
「ほら、戻ったでしょ? 行こ!」
「えぇ」
由紀の表情も明るくなり、仲良し二人はおしゃべりしながら街へと繰り出した。
「甘い物なんて最近食べてない。楽しみ!」
「え? 格さんの時は食べたくないの?」
今まで、休息時に由紀は甘いものをお銀と食べに行っていた。
しかし、戻れなかった早苗は留守番。
そして…
「なんでかな? 甘い物はいいやって感じるの。代わりにお酒が美味しくって。味覚が違うのかな?」
助三郎と飲んでいた。
それをよく見ていた由紀は早苗を小突いた。
「早苗、お酒凄く強いんでしょ?」
「助三郎さまより強いだけだって」
あまりに強いので父と兄に『ざる』だと称された。しかし、本人は断じて『ざるではない』と意地を張っていた。
「やっぱり早苗のほうが話しやすいわ。格さんだと首がつかれる」
そう言って彼女は首をさすった。
格之進は背が高い。それ故、由紀は見上げないといけない。
逆に、早苗も男の姿の時はお銀や由紀を見下ろすことになる。
あまり心地いいものではなかった。
「大きいもんね。…でも助三郎さまと話しやすいからいいかな」
その呟きを由紀が聞いていた。
にこっと笑いかけた。
「いいわね、好きな人とずっと一緒にいられて」
しかし、早苗は手放しで喜べるわけではなかった。
「…向こうはわたしのこと、何とも思ってないけどね」
『格之進』の事をどう思っているのか。
ただの同行人、同僚、それとも友達。
仲良くしてくれる、色々教えてくれるそれは嬉しかった。
しかし、ふと考える。
本当の自分、早苗をこの男はどう思っているのか。
近くにいるのに遠い。距離感を覚えた早苗は、実際に相手と距離がある親友に尋ねた。
「…ねぇ、お相手の方と会えなくて寂しい?」
すると、由紀の顔が少し曇った。
「少しね…。安否もわからないから…」
便りを一切寄越さない男。
不安で仕方がないはず。
早苗は精一杯の励ましを考えた。
「早く紀州に着ければ良いけどね」
すると由紀は元の元気な由紀に戻っていた。
「だったら、ご隠居さまにくぎ刺しといて! なるべく早く行きましょうって」
「うん」
二人で目当ての甘いものを堪能した後、早苗は手紙をササッと書き上げた。
言いたいことが山ほどあったが、助三郎に道中の注意だけしておいた。
恋文ではない文に、『会いたい、さみしい』など書けるわけがない。
第一、助三郎にそんなこと恥ずかしくて書けない早苗だった。
そして、残りの時間は楽しいおしゃべりの時間だった。
女同士のおしゃべりは楽しい。
少し溜まっていた不満なことを吐き出し、すっきりとした心地で二人は店を出た。
「格さんとこれだけしゃべると、助さんに怪しまれるから残念ね」
男と女になっているときは極力二人きりで話さない努力をしていた。
「由紀にはお相手がいるし、格さんは本当の男じゃないから大丈夫なんだけどね」
「…本当? どこからどう見ても男じゃない!」
「男じゃないの!」
女同士笑いあって歩いていたが、早苗はふと思った。
また格之進の姿での生活が待っている。
日々の生活は大分慣れた。しかし、風呂は小さな旅籠が多いのでゆっくり入れない。
それにもかかわらずお銀に頼んで見張ってもらう日々。
彼女に迷惑かも知れない。しかし、男の裸は見たくない…。
そんな余所事を考え、気を抜いたのが行けなかったようだ。
二人は後ろからこっそりと付いて来た不審な男に気が付かなかった。
助三郎は光圀に負けた。
惨敗だった。
あまりにみじめな負け方をしたので、光圀の提案で囲碁で勝負していた。
今度くらいは、勝つだろうとの憶測で。
二人で黙々と勝負をしていたが、助三郎は部屋がやたらに静かなことに気がついた。
「そういえば、由紀さんはどうしたのです?」
「買い物だそうじゃ。ほれ、助さんの番」
一手打つと、助三郎は再び質問。
「お銀は?」
「…調べものじゃ」
光圀が一手打った。
難しい手に、助三郎は頭を悩ませ始めた。
そして、全く違うことを思いついた。
「お銀もいない。ということは男だけ…」
「なんじゃ? 早く打たんか」
「…ご隠居どうです? ここはパーッときれい所でも呼んで」
光圀はその話に乗った。
「…良いのう。文句を言う格さんもいないことじゃ」
主の許可を得て、助三郎は早速事を進めることにした。
「では早速」
しかし、丁度そこへお銀が帰ってきた。
「あ! お銀…」
「なに? あ、良くないこと考えてたんでしょ?」
「いいや…」
眼を泳がせる助三郎を鼻で笑い、お銀は主に真剣な眼差しで告げた。
「ご隠居さま、先ほど町で良くない噂を耳にしたのですが…」
「ほう。なんじゃ?」
「実は…」
お銀は、町で入手した情報を報告し始めた。
早苗が気が付いた時、彼女は由紀と二人して小さなあばら家に入れられていた。
薄暗い小屋の湿った空気に彼女は顔をしかめた。
隣の由紀は怯えた様子で早苗を見た。
「…わたしたち、捕まったの?」
「そうみたい…」
早苗は記憶をたどり、何がどうなったのか考え始めた。
おしゃべりに興じている隙に、背後から男に口をふさがれた。
それしか、思い出せなかった。
自分だけならば、いい。しかし、友人を巻き込んでしまった。
己の不注意から起こしたこの失態を猛烈に後悔し、反省した。
「…本当にごめんなさい。危ない目に巻き込んじゃって。女に戻るんじゃなかった」
「…早苗は悪くない。捕まえた誰かが悪いんだから」
「そうです。あの男たちが悪いんです」
「え?」
この時、早苗と由紀は捕われたのが自分たちだけではないと気付いた。
小屋の中には、若い娘が大ぜい泣いていた。
どこぞの大店らしい着飾った身なりの娘、粗末な身なりの娘…
異様な光景に、由紀は疑問を口にした。
「…なんでこんなにたくさん女の子ばかり?」
早苗は、先ほど自分に口を聞いた町人の娘に声をかけた。
「…みなさん、攫われたんですか?」
「…はい。怪しい男に後をつけられ、気付いたらここに」
早苗と普通に会話が出来るのは、その娘だけだった。残りの娘は皆泣き続けるばかり。
その光景は哀れとしか言いようがない。
由紀は泣き続ける娘たちを慰めることに、早苗は今後の対処を考え始めた。
そこに、屋根から声が掛けられた。
それは男の声。
「…由紀さん、早苗さん」
聞き覚えのある声に、早苗は安堵し、声の主を探した。
「…弥七さん!」
天井から弥七が覗いていた。
彼は笑顔だった。
「…お二人とも大丈夫ですかい?」
自分たちの無事を報告した。
「それで、どうします?」
弥七は解っていた。
早苗が二人だけで逃げ出そうとなどとは考えていないことを。
「ご隠居さまにはすべてを伝えてください。でも、助三郎さまには絶対にわたしのことは言わないでください」