雪割草
〈15〉初めての…
翌日、昼過ぎ。
静かだった小屋の周辺の様子が一変した。
「裏切ったな!?」
「曲者だ!」
「捕まえろ!」
男たちのどなり声が響き、辺りは騒然となった。
刃物がぶつかりあう音や、殴る音がしばらく続いたがやがて収まった。
そして、身形を元の町人姿に戻した助三郎が小屋を蹴破って突入した。
「さぁ! 早く逃げるんだ!」
彼は大勢の娘たちに向かって声を張りあげた後、由紀に指示を出した。
「由紀さん、皆を連れて林の奥へ、お銀が待っている」
「はい。行くわよみんな!」
由紀は皆を引き連れ、小屋を後にした。
娘たちの殿は早苗だった。
彼女は助三郎に素直に謝った。
「…申し訳ありません」
息を整えた助三郎はぼそっと行った。
「…無事、みたいだな」
「…うん」
暖かい言葉を早苗は期待した、しかし…
「…まぁ、お前頑丈だからな。これくらいじゃ何ともないか」
彼は笑った。
いつもならそんな彼に早苗は食って掛かる。
しかし、さすがにその気にはなれなかった。
優しい言葉など期待したのが間違いだったと、早苗は顔を伏せた。
そして、泣きたくなったが必死にこらえて彼に一言告げた。
「…ありがとうございました」
そして、彼の前を後にした。
「あっ…」
彼がうろたえる様に、早苗は気付かなかった。
しかし、彼女は彼の前から走り去ることはできなかった。
助三郎に、腕を掴まれていた。
「逃げるんだから離して!」
彼女はその手を振りほどいた。
しかし、助三郎は諦めていなかった。
「待て!」
彼は再び早苗の腕を掴み、ぐっと引き寄せた。
「ちょっと!?」
男の姿の時には感じなかった許嫁の力の強さに早苗は驚いた。
そして、もっと驚くべきことが…
彼女は次の瞬間、許嫁の腕の中だった。
「…助三郎さま?」
自分を許嫁が抱きしめている。
生まれて初めての状況に早苗は動揺していた。
さらに、耳元に聞こえた彼の声が震えていることに驚いた。
「…よかった、早苗。無事だったな」
そういいながら、彼は早苗をさらに強く抱きしめた。
彼の身体の温もりが、彼女に伝わった。
取っ組みあいでは感じられない、幸せな気分に早苗は酔い痴れた。
彼の胸は優しく強く温かだった。
「…助三郎さま」
彼の胸に顔をうずめ、彼女は許嫁を肌で感じた。
自分が『女』であり、『早苗』であることを心から喜んだ。
しかし、そんな幸せな時もすぐに終わる。
助三郎は身体を突然離し、早苗を見つめて言った。
「お銀の所へ、みんなのところへ走るんだ」
早苗も頭を切り替え、彼の言うことを真面目に聞いた。
「はい」
助三郎は真剣な眼差しを少し和らげ、少し名残惜しそうな顔をした。
そして、苦しそうに彼女に命じた。
「行け。絶対に、捕まるな」
早苗はうなずくと、彼に背を向け走り出した。
すると、彼は彼女に向かって言った。
「早苗! 後でな!」
早苗はこれに返事はしなかった。
できるはずがなかった。
居てはいけない『早苗』
居なければいけない『格之進』
本来の女の姿で、会えるはずがない。
心の中で彼に謝りながら彼女は走った。
女として彼に会いたい、彼の側に居たい気持ちがあふれだしたが、必死に押さえつけた。
尚も走り続けていたが、彼女に体力の限界が訪れた。
「やっぱり、女だと、弱いのかな…」
彼女は男に変わることに恐れを感じていた。
これから始まるであろう闘いではなく、己の変化が怖かった。
今男に変わってしまえば、許嫁とのあの甘い一時が嘘になってしまうのではないか…
まだ残る許嫁の身体の温もり、やさしさを仮の男の肉体で覚えていられるのか…
「…助三郎さま」
しかし、彼女はその『助三郎さま』のために『格之進』の姿を手に入れた。
ここでその男に変わることを拒否すれば、許嫁が遠ざかる。
彼を『守る』事が出来なくなる。
早苗はしぶしぶ男に変わった。
再び目線は高くなり、手は大きく、腕は逞しくなっていた。
変わり果てた姿に悲しくなった彼女は、心の支えである許嫁を思い浮かべた。
「…助三郎」
ここで彼女は気付いた。
いくら男の姿であっても、彼が大好きな己の心は変わっていなかった。
好きで好きでたまらない気持は健在だった。
彼に抱きしめてもらった、甘く幸せな思い出も消えてはいなかった。
その大好きな男を守るため、彼女は再び走り出した。
「…待ってろ、助三郎! 今行くからな!」
その男、助三郎は主の光圀と、家老の所へ乗り込む支度をほぼ終えていた。
彼は不安でいっぱいだった。
「…ご隠居、格さんはまだでしょうか?」
彼はそわそわと落ちつかないそぶり。
光圀も同様だった。
「…間に合えばいいがの。早苗はしっかり助けだしたんじゃろ?」
思わずそう言ってしまったが、助三郎が気付くはずもない。
「はい。しかし、それと格さんと何か?」
光圀は悟られまいと彼から眼を反らした。
「あ、いや、なんでもない。ただ聞いただけじゃ」
それから少ししても、二人の前に『格之進』は現れなかった。
ついに、光圀は作戦変更を考え始めた。
「…格さん抜きで行くしかないかの?」
諦めがつかない助三郎は、彼にすがった。
「…もう少し、あと少しだけ待ってみませんか?」
その時だった、早苗がやっと二人の前に現れた。
「ご隠居! 助さん! 遅れて申し訳ありませんでした!」
もう『助三郎さま』とは言わない。
仕事に頭を切り替え、自分は『格之進』だと言い聞かせていた。
「格さん! 間に合ったな!」
安心して嬉しそうな声を上げる彼に、早苗はほほ笑んだ。
「すまん。遅れて。ちゃんと仕事するから、許してくれ」
「…早苗、無事だったか?」
こそっと光圀が彼女に耳打ちした。
「…はい。ご迷惑をおかけしました、以後このようなことにならぬよう、重々気をつけます」
「そうか。責めはせん。それよりな、ほれ」
光圀は懐から大切なものを取り出し、早苗の手に乗せた。
「印籠は格さん、お前さんの役割じゃ」
恐れ多い印篭を恭しく受け取ると、早苗は決意を新たにした。
「お任せください!」
それを満足げに眺め、光圀はお供二人の前に立った。
「それでは行くかの。悪者退治に」
「はっ!」
豊海屋の別邸には、家老大久保弾正と側近が来ていた。
「…豊海屋今晩連れてくると言っておったな?」
家老はいやらしい笑みを湛えた。
「はい、ご家老さま。上等な娘を」
悪い顔の豊海屋も同じ。
「おぉ。ようやった!」
「お褒めいただきありがとうございます」
男どもがニヤニヤスケベな事を考えている所へ、豊海屋の男が入って来た。
「なんだ、こんなところに?」
不快を露わにする主に、男は恐る恐る近づき耳打ちした。
「それが、旦那様、その…」
聞き終わった途端、彼は大声を上げた。
男は怒られたと思って怖がり、逃げてしまった。
いきり立っている豊海屋に家老が気付いた。
「どうした?」