雪割草
〈18〉巫女
次の日の朝、約束どおり宿に女がやってきた。
彼女は光圀に礼儀正しく挨拶をした。
「この前はありがとうございました。申し遅れましたが、わたしは千代と申します」
彼女の名乗りに、光圀は興味を示した。
「ほう。あの山内一豊公の内儀の|見性院《けんしょういん》と同じ名前ですかな?」
「はい。よくご存知で」
初めてこの時、千代に笑顔が差した。
光圀もそれに安堵し、名乗った。
「そうじゃ。わしは越後のちりめん問屋の隠居で光衛門。こっちは供の助、格、由紀にお銀」
皆の自己紹介が終わると、光圀は気がかりだった事を彼女に聞いた。
「千代さん、あの後は無事でしたかな?」
すると、彼女の顔が曇った。
「…完全に無事とはいえません。あの後すぐに捕まりました…」
部屋にさっと緊張が走った。
「それはまた、大変な…」
「ですが、昨晩また逃げました。そして、今日どうにかここに」
ただ事ではない彼女の話に、皆が関心を寄せていた。
光圀が代表して問いただした。
「…誰かに追われてるのですかな?」
千代は隠し立てすることなく正直に話し始めた。
「追われているというより、監禁されています」
驚いた光圀は彼女をまじまじと眺めた。
さして目立つ娘でもない。彼女に一体何があるのか、見当がつかなかった。
「あの神社に押し込められています…。けれど、家に帰りたかったので、抜け出しました。そうしたら、捕まりました…」
一同が好機の目で彼女を見る中、光圀は穏やかに聞いた。
「貴女は一体、どういう御身分ですかな?」
「わたしは…巫女です」
その途端、早苗の隣の助三郎がつぶやいた。
なぜか顔がほんの少し二ヤケていた。
「…巫女さんって、黒髪垂らして、赤い袴穿いてる巫女さんだよな?」
おかしな彼に、早苗はこそっと注意した。
「…なにニヤついてる?」
彼は千代から目を離さず、続けた。
「…一度くらいは憧れただろ? 巫女さんに」
「はぁ…?」
意味不明な彼の言葉に早苗はただ首をかしげるだけだった。
二人の無駄話をよそに、光圀と千代は話を続けた。
「神社は…この辺りにあるのですかな?」
「はい。街の中心から少し外れてますが」
急に由紀が思い出したように声を上げた。
「ご隠居さま、昨日格さんと街に行った帰りに、お侍が神社を見張っているのを見ました」
早苗も思い出していた。
侍のやけに張り詰めた緊張感が気になっていた。
早苗の隣で、再び助三郎が無駄な事をつぶやいた。
「…お前、由紀さんと二人で出歩いたのか?」
「へ?」
ギクリとした早苗だったが、彼の思考は彼女とは違う方向へ向かっていた。
「人目を忍んでの逢引きか。うらやましいなぁ」
その言葉に早苗は猛反発した。
そうすることで、己の正体の露見の危険性が増すことを考えてはいなかった。
「俺はあの人とそういう関係じゃない! 由紀さんには相手がいる!」
「何でそんなに怒る? ちょっとからかっただけなのに…」
早苗は墓穴を掘らないよう、話を逸らした。
「からかうって…。お前はなんでそう集中力が無い? 今は千代さんの話だ。俺の話はどうでもいいだろ!」
「…はいはい」
「『はい』は一回!」
すごすごと助三郎は引き下がった。
供二人の痴話喧嘩を睨み付けた後、光圀は千代に向き直った。
「…監禁の理由を教えて頂けますかな?」
少し戸惑った様子を見せた千代だったが、ポツリと洩らした。
「…わたしの『力』が原因です」
光圀はそれを聞き逃さず、反復した。
「『力』とは?」
千代は、光圀の瞳をじっと見つめ小さく言った。
「…信じて戴けますか?」
光圀は優しく笑みを湛えた。
「はい」
それに安心したのか、千代は告白した。
「わたしの『力』は、未来を読むことです」
一同は驚いた。
常人はどう足掻いてもできない、先読み。
それを目の前の普通の娘が出来る。
「わたしのこの力を利用して、良くない事を考えている輩がいるんです…」
千代の証言から、藩の上層部の何者かが、彼女の監禁及び未来を予測することを強制しているということがわかった。
千代は光圀に彼女の気持ちを訴えた。
「わたしは、自分の欲望のための先読みはしたくないんです」
真剣な眼差しだった。
「それで、千代さんはどういう対策を?」
「読めと言われている近い未来の代わりに、二百年、三百年先を読んで話しています。誰も理解が出来ないでしょう?」
興味深々の光圀だったが、その気持ちを抑えひとまずは悪人どもの状況を知ることを優先した。
「そうかもしれんのぅ…。それで、相手はどう出てきますか?」
「なかなか諦めてくれません。しぶとくて…」
千代の悪に屈しない姿勢に光圀は感心した。
そして彼女を褒めた。
「それが正解ですな。千代さんは正しいことをしておる」
それから少しばかり千代と話し、悪人の情報を得た光圀だった。
しかし、重要事項が終わるや否や、先ほど押さえつけた自分の好奇心を表に出した。
「ところで千代さん、三百年先にこの国はちゃんと有るのですかな?」
千代は好奇心いっぱいの光圀の眼を見て笑みを浮かべた。
まるで子供のような彼に、悪い心はないと思ったのか、包み隠さず話し始めた。
「はい。異国との交流が盛んになり。政は我々庶民の代表が行っているみたいです」
「ほぅ。興味深い。のう?助さん」
助三郎は眼を輝かせて千代の話を聞いていた。
そして主に相槌を打った。
「はい。もっと知りたいです」
早苗はそんな許婚の姿に疑問を抱いた。
彼は子供のときから賢かった。頭も良いと評判だった。
しかし、学問が好きではなかった。
書き物、算盤が苦手なのはその最たる証拠。
しかし、知識は豊富。歴史にはやたらと詳しい。
彼女ははっと気付いた。
許婚のことは誰よりも知っていると思っていたのは間違いだということに。
彼の職場がどこなのか。彼はなにをしているのか。
知らない事が存在していた。
彼の考えがわからない。
彼の気持ちがわからない。
それは、佐々木助三郎という一人の男が何者なのか、完全に理解できていない証拠だった。
早苗が一人気落ちしている間に、光圀は千代のこれからについて何か考えを出したようだった。
「今日は神社には戻らないほうがよろしい。ちょっと供の者と相談するので待っていてください」
彼はお供二人と話し合いをはじめた。
「ワシはここで匿った方が良いと思う。どうじゃ、助さん?」
「私は、それでよろしいかと」
「格さんは?」
早苗はふっと千代と光圀の会話を思い出していた。
『家に帰りたかった』
その言葉にピンと来た彼女は、主に意見を述べた。
「ここに匿う前に、家族に会わせてあげられませんか?」
光圀は少し考えた後、快諾した。
「…短い間なら良いじゃろう。そうしようかの」
早速一同は行動に出た。
「千代さん。貴女の身を守るため、ここで匿ってあげましょう。しかしその前に一度家に帰りなさい」