雪割草
「…帰れるのですか?」
半信半疑の様子の千代に、光圀は安心させるように言葉を繋いだ。
「心配せずとも供のものをつけます」
すぐに千代を送り届ける準備が始まった。
すると助三郎がこそっと主に耳打ちをした。
その様子を見ていた早苗は、なんとなく悲しくなった。
彼女は、彼が千代を送る任務を主に立候補しているのだと思い込んでいた。
二人きりになれる。近づける。
許婚を早苗は恨みたかった。しかし、それは出来ない。
溜息をつき、諦めようとした矢先思いがけない命が下った。
「格さん、弥七もつけるでの。頼むぞ」
光圀の言葉に、早苗は飛び上がるほど驚いていた。
「えっ!? 私ですか!? 助さんじゃないんですか!?」
彼女を助三郎はニヤニヤして見ていた。
「頑張れ、格さん!」
しかし、納得がいかない彼女は光圀に問いただした。
「…ご隠居、なんで私なんですか? 理由は何ですか?」
するとなんともあっさりとした答えが返ってきた。
「ん? 助さんに頼まれたでの。格さんに行かせてやってくれとな」
早苗は無実の主に一礼し、その前を辞した後、まだニヤニヤしている許婚に詰め寄った。
「助さん。なんで? なんで俺なんだ?」
彼は少しニヤニヤを抑えて言った。
「千代さんはお前に気が有るみたいだから」
無責任な言葉に、早苗は訴えた。
「…お前、俺が女の子苦手だって知ってるだろ?」
「あぁ。知ってる。だからこそだ」
まっすぐに自分を見る男に、彼女は疑問を抱いた。
「どういう意味だ?」
「いつまでも苦手っていって逃げてたらダメだ。いつかは絶対嫁取らないといけないんだからさ」
嫁に『行かなければ』ならないとは言われたことがある。
『取らなければならない』などとは一度も言われたことがない。
許婚が己を完全に『男』だと思い込んでいることに一種の安堵感を覚えたが、それ以上に情けなさが先立った。
なぜ、女の自分がこんなことを許婚に言われなければならないのか。
「ビクビクしてないでドンと行って来い!」
助三郎にせかされ、早苗は千代と一緒に宿を出た。
隣を歩く彼女に、何を言っていいのか皆目検討がつかず、黙りこくっていた。
すると、千代は心配になったようだ。
「…格さん、ごめんなさい」
「へ?」
「…ご迷惑おかけして、すみません」
「あ、いえ。そうではなくて…。実は私、ちょっと女性に慣れてないので…」
本当は女の自分がなぜこんなことを言わなければならないのか。
この姿に問題が無ければ、女のままであれば、友達になれるであろう女の子。
その女の子に素直に向き合えない歯がゆさを感じていた。
「大丈夫です。私も男の人にあまり慣れてないので…」
「え?」
そう言った千代の眼を見た。
その眼は今まで出会った女の子とは違った。
普通の眼差し。女が男に向けるそれとは全く違ったものだった。
安堵した早苗は、千代にびくびくする事も無くなった。
そして、心持は女の子に戻り、同年代の彼女とおしゃべりしたくなっていた。
おもむろに、彼女は一言聞いた。
「未来がわかるんですよね?」
「はい」
「…では、自分にこれから起こること、全部知っているんですか?」
すると、千代は笑って言った。
「残念ですが、自分のものはダメです。人のものしか見えません」
「え。じゃあ…」
ドキリとした早苗は、少し不安げな表情で彼女に窺った。
その気持ちに気付いたのか、千代は静かに言った。
「見ようと思わないと見えないので安心してください。勝手に見るのは失礼ですから」
「そうですね」
それからおしゃべりしているうち、徐々に打ち解けて行った。
すると、ようやく千代の家についた。
早苗は辺りを慎重に窺ったが、周りに怪しい人影はなかった。
「…この家の場所は、連中にバレてませんか?」
「…まだ大丈夫だと思います」
最終確認をし、早苗は千代を送りだした。
「では、千代さん。少しの間ですが、家族の方と会って来てください。私はここで見張っていますので」
「はい」
千代は家に駆け込んだ。
「お母さん、お父さん!」
「千代!」
中からは、再会を喜ぶ嬉しそうな家族の声が聞こえた。
その声を聞きながら、早苗は水戸の家族に思いを馳せた。
母はなにをしているだろうか、父は仕事を真面目にしているのか、兄は母に怒られていないだろうか…
すると、突然、彼女に男の声が聞こえた。
「格さん」
「あっ。弥七か? ほんとにいつもどこにいるんだ?」
知らないうちに弥七が目の前に立っていた。
「これが忍びですぜ。よく覚えておいてください」
ニッと笑い、低く告げた弥七を早苗は黙って見ていた。
「…ところで格さん、あの娘は平気なんですかい?」
弥七はどうやら、光圀に言いつけられたとおりずっと二人を見守っていたらしい。
「俺を男を見る目でみて来ないんだ。友達になれそうだ」
嬉しそうに彼にそう言ったが、弥七はそんな彼女に忠告した。
「でも気をつけてくださいよ。友達になりたいんなら、男として惚れられないようにね…」
早苗は彼の発言にうんざりした。
「…弥七までいうか? なんで俺が惚れらないといけない?」
助三郎はニヤニヤ笑ってからかうが、弥七は違った。
至極真面目に、その根拠を並べはじめた。
「…早苗さんとしてはイヤかも知れませんがね」
「あぁ…」
「その姿、格さんがモテる原因の一つは血ですぜ」
不思議な言葉に、早苗は言葉を反復した。
「…血? 俺の、血か?」
「へぃ。…先祖の忍びの血がね」
先祖は紛れもなく忍びだった。
それ故今、彼女は秘薬の力で男になっている。
しかし、それがモテることと直結する意味がわからなかった。
「…なんでそれが原因なんだ?」
弥七は、静かに笑った。
「相手を落とせば、忍び仕事が楽にできる時が多い…。良い女に男は弱い。良い男に女は弱い」
「…そうか?」
「そうですぜ。ただし、格さんはちと良い男すぎるな…」
「はぁ?」
「わかるでしょう? 道行く娘が大抵振り向く。格さんに頓着しないのは、今のところお銀と由紀さんだけだ」
その言葉を早苗は信じたくなかった。
同性になぜ惚れらる必要がある。
同性を誑かす仕事だけはやりたくないと早苗は漠然と考えていた。
「おっと、そんなこと言ってる場合じゃねぇんだった。すぐここも危なくなる。用心を」
弥七はすっと姿をくらませた。
すると、千代が家から出てきた。
「家族に説明してきました。今日から匿ってもらうと。よろしくお願いします…」
早苗はその言葉を聞くと、彼女を庇うようにその場を後にした。
「早く帰りましょう。ここも危ないようなので」
宿に戻り、千代とも別れ一人ほっとしている早苗の所へ助三郎がやってきた。
彼はまたニヤニヤしていた。
「格さん!」
「なんだ?」
ニヤニヤ顔が気に食わない早苗はぶっきらぼうに彼の顔を見ずに言った。
「千代さん、大丈夫だったろ?」