雪割草
茶碗に口をつける寸前、ある声が弟君の動きを止めた。
「飲んではいけませんよ」
不思議な事を言う声に驚いた彼は、茶碗を畳に置くと部屋を見渡した。
「誰か居るのか?」
声はすれども姿は見えず。
声はまたも彼に忠告した。
「それには毒が入っているのでな。飲んだら大変な事になる」
「毒!?」
兄弟が驚く傍で、家老は焦って怒声を上げた。
「曲者! 姿を現せ!」
ようやくここで声の主が現れた。
光圀だった。
「はいはい。ご家老様。ごきげんよう」
余裕の光圀は笑顔で家老に挨拶した。
しかし、家老は計画が失敗したので気が動転、罵声を浴びせた。
「ジジイ! 何用だ!? どこから入って来た!?」
光圀は努めて笑顔で返した。
「……ジジイとは心外な。まぁ、捕まえて頂いたおかげで、すべて見る事が出来た。貴方がそこの弟君を殺め、兄君を藩主に据えようとする一部始終をのぅ」
兄君は驚いた。そして祖父の考え、行動に恐怖し、青ざめた。
「貴方は一体……」
しかし、家老は悪あがきを止めなかった。
「べらべらと意味不明な事を抜かしおって!」
「本当のことを言っているまで。この娘に全部聞いた!」
弥七に連れられ、千代が現れた。
家老は彼女を睨んだ。
しかし、千代は臆せず声を張り上げた。
「ご家老さま、貴方の未来は見えています! 潔くおあきらめください」
「くそっ。あと少し、あとほんの少しだったのに……」
家老は地に手をつき、悔しげに唸った。
「さ、お前さんも武士なら、潔く腹を切るのじゃ!」
しかし、悪者は最後まで悪者。
家老は悪あがきを始めた。
「……城にまでのこのこ上がりこみ、若君の御前でのこの騒ぎ! 狼藉者じゃ!」
家老の声で、奥から武装した男たちが出てきた。
早苗はこの光景に緊張した。しかし、すぐ隣の助三郎は余裕だった。
「ほら、言ったとおり。たくさんいるな」
早苗は彼に助言を請うた。
「……どうすればいい?」
助三郎は敵から目をそらさず、指示を出した。
「まずは千代さんが危ないから、ここから遠ざけろ。そのあと、御隠居を守れ」
早苗は彼の言うとおりにした。
「千代ちゃん。見つからない所に隠れて。終わるまで出てきたらダメだからね」
そう彼女を安全な場所へと走らせた。
千代がその場を去った事を確かめると、早苗は光圀の前に立った。
主を背にし、防御の構え。
「助さん、格さん! 懲らしめてあげなさい!」
「はっ!」
主を守りながら、二人は侍たちと闘った。
侍たちはさすがに城の護衛。手強かった。
早苗は素手で立ち向かい、助三郎は峰打ち。
「ご隠居! 危ないからやめてください!」
「そうです! ここは我らに任せて!」
早苗と助三郎がそう叫ぶも、光圀は聞く耳持たず。
「イヤじゃ! わしも戦う!」
杖を振り回し、果敢に敵に立ち向かっていた。
次第に侍達の戦意が衰え始め、闘いの終わりが見えた。
光圀の目配せで、早苗は懐から例の物を取りだした。
「この紋所が目に入らぬか!」
侍たちの視線が早苗の右手に注がれた。
「こちらにおわす御方をどなたと心得る。畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」
その場に居合わせた物が騒然となった。
最後のとどめに、助三郎が声を上げた。
「一同、御老公の御前である。頭が高い! 控えおろう!」
すべての人間が地面に這い蹲った。
その場は、先程までの乱闘が嘘だったかのように、静まり返っていた。
「御老公様! このたびの無礼、大変申し訳ございませぬ!」
小姓に両脇を支えられながら、寝間着のままの病の藩主が出てきた。
彼は床に手をつき、頭を深く下げた。
その藩主を光圀は制した。
「これこれ、病人が起きてきてはいかん」
しかし、彼は聞かなかった。
「御老公様のおいでとなれば、寝てなど居られませぬ!」
病人の気迫に光圀は負けた。
「そうか。ではこれが終わり次第床に入る事、よいな?」
「はっ!」
居住まいを正した藩主に、光圀は命を下した。
「一先ず、この家老の始末をな。巫女の千代を監禁、誘拐、脅迫。更には、弟君の暗殺によって己の孫を藩主に据えての権力掌握、果ては幕府に取り入ろうとした。大罪人じゃ。始末は頼む」
「はっ。今すぐこの者を引っ立てよ! 牢に入れておけ!」
先程まで家老の命で動いていた男たちは、その家老を取り囲み、牢へと連行して行った。
命を狙われた弟君はほっと一安心。
「よかった…… ね、兄上?」
先程まで隣に居た筈の兄が、そこには居なかった。
彼は兄を捜した、そしてとんでもない光景が彼の眼に飛び込んできた。
「……兄上? 兄上! おやめください! 早まらないで下さい!」
そう叫び、弟は兄の元へと駆け寄った。
人目につかない所で、兄は腹を切ろうとしていた。
弟は必死に刀を持つ兄の手に縋りつき、自害を阻もうとした。
「おやめ下さい! お願いです! 兄上!」
しかし、兄はやめようとしなかった。
「止めるな! 私は罪人だ!」
弟の腕を振り払い、彼は再び刀を腹に突き立てようと試みた。
弟は泣き叫び、再び兄に縋りついた。
「違います! 悪いのは家老です! 兄上は何も関わりない! おやめ下さい!」
傍で見ていた光圀が助三郎にそっと命じた。
「助さん。刀を」
「はっ。御免!」
助三郎が刀を力づくで奪いとり、どうにか自害を防いだ。
「兄上……」
やっと命の危機を脱した兄の傍で、弟は泣きだした。
しかし、兄はその弟を今までのように兄として慰めたりはしなかった。
彼は身形を直すと、弟の前に平伏した。
「もう兄などと呼ばないで下さい」
「……兄上?」
兄の行為と、言葉に弟は驚き泣くのを止めた。
「貴方は嫡出。正当な後継ぎにございます。私のような者にそのような話し方、呼び方は今後なさらないように……」
弟は反発した。
「イヤです! 兄上は私の兄上だ! 私は、藩主などになりたくない! 兄上が藩主です! 私は兄上の補佐に徹します。だから……」
しかし、兄は言う事を聞かなかった。
「お願い致します。若様。このとおりです」
兄は深々と頭を垂れた。
弟は兄のその行為に驚き、取り乱し始めた。
「頭を上げてください! 兄上! 私の名を呼んでください!」
苦し紛れに兄は言った。
「……御無理を申されますな、若様」
兄に言っても無理と判断した弟は、光圀に平伏した。
「御老公様、私は、私は兄に頭を下げられるなんて我慢出来ません!」
「そうか……」
「藩主の座は、長子の兄が継ぐのが当然、そうでございましょう?」
光圀は言葉を返せなかった。
眼の前で涙を流し、自分に訴える青年が、光圀の何十年も前の姿と重なったからだった。
しかし、光圀は心を鬼にして言った。
「弟だがそなたは嫡出、兄は庶子。そなたが継がねばならん」
「そんな……」
落胆する弟君に光圀は自分の話を始めた。