雪割草
女将は丁寧に畳に手を突き、挨拶を述べた。
「本日はこのような宿にお泊まりくださり、ありがとうございます。どうぞ、ごゆっくりしていって下さいませ」
光圀は上機嫌で彼女に返した。
「はい。どの宿にも断られましてな。困っておったところ。そちらの方に連れてきてもらいました。」
女将は後ろの男を振り向いた。
彼はニッと彼女に笑った。
「ご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか?」
女将は心配そうに言った。
「いえいえ、おかげで野宿にならずにすみました。感謝しております」
ホッとした様子の女将は、さらに続けた。
「それはようございました。それはそうと、お食事はお口に合いましたでしょうか?」
「はい。素晴らしかったですよ。ありがとうございました」
光圀は一行を代表して食事の礼を述べた。
女将は心底うれしそうに笑った。
「ありがとうございます」
女将の後ろに居た男が口を挟んだ。
「料理はうちの宿の自慢なんですよ! ですがね……」
すぐさま女将が彼を制止した。
「これ、つまらない話をお客様に聞かせてはいけません!」
男は少し不満げな表情を浮かべたが、彼女に謝り口を閉ざした。
「ごめんなさい……」
女将はすぐに笑顔に戻ると、一行の部屋から退出した。
「……では、ごゆっくり」
二人が去った後、早苗と助三郎、光圀には気になることが出来た。
それは、先ほどの男の言葉。
「何でしょうね? つまらない話って……」
助三郎は腕を組み、低く呟いた。
「お前さんも、気になるか? 格さんは?」
光圀はもう一人の部下を窺った。
「気になります。あの人に、しっかり聞いてみましょうか?」
早苗はそう口にした。
「そうじゃな。では、お前さんら、明日にでも聞き出してみなさい」
光圀のおせっかいが始まった。
しかし、今回は部下二人も賛同した。
「何にもなくてつまらんな。」
次の日の朝、助三郎は寝転がり窓の外を見てそうぼやいた。
「そうだな……」
手持無沙汰の早苗も彼のぼやきに同情した。
外は生憎の雨。出歩くと着物が濡れるし、風邪をひくかもしれない。
それ故一行は大人しく宿に留まるしかなかった。
「これといった仕事は無い…… 外は出歩けない…… 将棋は負ける……」
やることが無くなった二人は将棋で勝負をした。
しかし、すぐに勝負がついた。
「なぁ、助さんってなんでそんなに将棋弱いんだ?」
すぐに勝負がつくのは、対戦する二人の力量に大きな差があるから。
早苗は率直に助三郎に言った。
「フン。知らないよ!」
ボロ負けした助三郎は不機嫌そうに不貞寝してしまった。
早苗は彼の機嫌を損ねた事に気付き、すぐに謝った。
「怒るなよ、悪かった……」
すると、助三郎はむくりと起き上がると、少し照れくさそうに早苗の方を向いた。
「いや。お前の言うとおり。弱いのは本当だ。今までほとんど勝ったこと無いから……」
「そうか…… でも、何が理由だろな?」
許婚の機嫌が直った事に安堵した早苗だったが、彼の弱さの理由が気になった。
「それがわかりゃ、苦労しないって」
助三郎は笑った。つられて早苗も笑った。
そんな二人を目ざとく見つけ、由紀がやって来た。
「楽しそうね、御二人さん。何してるの?」
助三郎は胡坐をかくと、欠伸をした。
「楽しくないぞ。何にもなくてぼーっとしてるだけだ」
「そう? 楽しそうに見えたけど。ね? 格さん」
意味深に笑い掛ける由紀に早苗はさらっと流した。
「そうか? 別にどうってことないけどな……」
助三郎は再び窓の外を眺めたまま、言った。
「なぁ、由紀さん。雨の日ってつまらなくないか?」
「そうかしら? 雨を眺めてるのも案外落ち着くわ。助さんは、雨嫌いなの?」
女らしい回答に、助三郎は感心した。
しかし、彼は雨を好きにはなれなかった。
「嫌いだ。濡れるし、気分が滅入る。庭で稽古できないし……」
男っぽい言い訳に由紀はクスッと笑った。
「雨の日くらい、じっとしてた方が体のためですよ」
結局、由紀が仲間に入り三人で雨を眺めた。
しかし、それも中断。
早苗は以前から気になったことを許婚に聞くことにした。
「……助さん、聞いてもいいか?」
「なんだ?」
「本来の佐々木助三郎って、何のどんな仕事してるんだ?」
許婚の事をもっと知りたい。
その気持ちで早苗は彼にそう言った。
「俺の仕事の話か?」
教えてくれるだろうかと思った途端、横の由紀が興味津々で入って来た。
「あっ。それわたしも聞きたい!」
助三郎は快く二人に自分の仕事を話すことに決めた。
「さてと、どこから話そう。渥美格之進は部屋住みだったな?」
「あぁ。一応……」
光圀からそう聞いた。無難な身分。
助三郎は自分の仕事について話し始めた。
「今はご隠居の直属だ。仕事内容は、『大日本史』あれの編纂だ」
「へぇ。面白そうだな」
早苗は彼の仕事に興味を抱いた。
しかし、助三郎は己の仕事を自慢しなかった。
「どうだろな? 編纂って言っても、歴史を調べて、字ばかり書いてる仕事だぞ」
由紀は助三郎をからかった。
「助さん、字が汚いのよね。早苗が言ってた」
早苗は思わず咳払いした。
助三郎はそんなことに気付かず、むっとして反論した。
「ったく、あいつそんなこと言ったのか?」
「えぇ」
早苗は許嫁に気付かれないように由紀を睨んだ。
助三郎は妙な言い訳を始めた。
「俺の字は汚いんじゃない。芸術的でその良さが誰にもわからないだけだ」
「あ、そう」
由紀は無表情でそう言った。
早苗は、思わず口にした。
「書いた内容が、誰にもわからなかったら意味無くないか?」
はっとした様子の助三郎は眼を泳がせていた。
再び早苗は許嫁を元気付けた。
「まぁ、気にするな。いっぱい書きものしてれば、そのうち上手くなるさ」
「そうだといいけどな…… でも、格さんは好きだよな? 物を書くの。ご丁寧に毎日日誌書いてるもんな」
毎日欠かさず日記をつけている早苗を面白そうに助三郎は眺めた。
「字を書くのはおもしろいからな」
由紀はそんな二人を見て、あることを思いついた。
「格さん、案外その職場向いてるかも」
「へ? 俺が?」
早苗は意外な言葉に驚いたが、助三郎は乗り気だった。
「そうだ、向いてる! 出仕するようになったら、橋野様に頼んでうちに入れてもらえよ!」
「へ? 出仕?」
有り得ない方向に話が進んでいき、早苗は困惑し始めた。
そんなことなどわからない助三郎は目を輝かせて言った。
「俺ん所、活気がないんだ。後輩も歳が近い先輩も居ない。同年代の同僚が欲しいんだ」
早苗は苦しくなった。
いくら彼が望んでも、無理な物は無理。
『渥美格之進』はこの世に本当は存在しない。
出仕などできない。
それ故、彼の気持ちだけ受け取った。
「ありがとな。誘ってくれて」
しかし、彼はまだ『格之進』を同僚にしようという考えだった。